花鳥風月記

流れる水に文字を書く

2021年 新年の辞

あけましておめでとうございます。

 

「おめでとうございます」ということばが空疎になるほど、

昨年は皆々様にとって、大変な一年であったと思います。

 

一年前には予想だにしなかった新型コロナウィルス感染症は、

年末には都内で1,300人超の感染者を出し、2020年が

「為政者の無為無策で、さらに禍となった」一年となりました。

 

永田町の主は迷走・逆走、そして遁走し、

新たに変わった番頭役は確かにその路線を引き継いでいるようで、

この国に暮らす人々をさらに不幸に追いやっているとさえ思います。

 

積極的にPCR検査を行って感染者を見つけ出して隔離して、

さらなる感染者を増やさないようにする。

そんな外国では当たり前のような対策がなぜか日本では行われず、

それを非難する専門家らしきもの、ネットでの批判らしきものが

蔓延することとなりました。

「らしきもの」としているのは、それが自然発生的ではなさそうだ、

ということからです。

 

感染が抑え込まれていない状況下からのGo Toキャンペーン。

なぜ「Go To」なのか不思議に思いましたが、

小学生の頃、最初のパソコンブーム(当時はマイコン)の際、

使われていたのはBASICで、その教科書本には、

「Go To」の項がありました。

そこでも「強盗ではありませんからね」と書いてあったと思います。

政策立案者の年代からすれば、これがネーミングの元と

考えてもよいかもしれません。

使いでのない古いマイコンの動作仕様で「経済をまわす」

まるで一般市民を「頭の悪いサル」のようにしつらえる様は、

まさに現政権が見ている、あるいは見下している姿と重なります。

そう考えないと、今の政権から発せられる空疎な言葉を

理解することができないと思います。

 

さて、延期したオリンピックです。

ある体操選手が「いかにオリンピックができるのか考えてほしい」

と言ったことが話題になりましたが、現実的にはその逆が必要かと思います。

「いかにオリンピックを中止させるか」ということです。

おそらく、それを考えている政治家はほとんどいないと思われます。

コロナの「自粛警察」ならぬ「開催警察」が

公に民に網を張っているからでしょう。

だからこそ、昨年の都知事選挙でも

メインテーマになりえなかったのだと思います。

そんな覚悟のない政治家を選んだわけですから、

今のコロナ禍を乗り切るのは、まさに至難の業です。

 

オリンピックが中止になるとしたら、

四半世紀ほど前の、あの山一證券廃業のように

「私らが悪いんであって、社員は悪くありません」

という号泣会見をさせるために、

もしかしたら今の宰相を置いているのかもしれない、と

思ったりします。

あるいは、その逆のことを言いやしないかと

不信に不審を重ねるような思いも交錯します。

 

政権交代があったとしても、

現政権が悪くなった状況を放り出し、

新政権がそれらを受け止め、一敗地に塗れることになるでしょう。

「それ見たことか」と高みの見物をする面々を考えると

2009年の時のことが思い出されて何とも嫌な感じです。

でも人間らしく生きるためには、それしかないでしょう。

 

2021年は、どうやって中止し、どうやって負け、どうやって後退し、

どうやって二流・三流に格下げされるのか、が問われる一年かと思います。

そのなかで、富の偏在を解消し、そこに暮らす人々の

心を癒すことができるかがとても大切なことと思われます。

 

そのためには、ネットにせよ、メディアにせよ

「力のあるもの・力のあるものが雇う弱いもの」のものではなく

弱いもの・市民のものにできるかがポイントとなります。

 

本年もよろしくお願い申し上げます。