花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景 (41)

後の不始末

事件・事故の結果、何が残されるのだろうか。
イージス艦と漁船の事故のニュースを見たとき、ふと思った。
古くは「潜水艦なだしお」や、ハワイでの「えひめ丸」などの
軍用艦船の事故で浮き彫りになるのが、軍としての「閉鎖性」だ。
勿論、軍には機密があって、などというようなことは誰でもわかりそうなことだが、
それよりも、人命救助にかかわる瞬間においても、その「閉鎖性」が
遺された人や、それを見つめる人間にも、怒りと悲しみを募らせる。

潜水艦にはソナーがあり、イージス艦にはレーダーがある。
設備としては、最新鋭を誇るはずが、なぜ、目の前の漁船に気づかないのか。
どう考えても、その設備を使いこなせない、または、ヒューマン・エラーを招く
組織体系(または陥穽)がある、ということではないか。
つまりは、「人災」に相当する。

こういった事故の責任がどこに向けられるのか。
責任者の更迭、ということなのか。見張りや操縦に携わった人間の処罰なのか。
その「閉鎖性」は砦となり、厚い壁の中で隠され、守られてしまうものなのか。
勿論、当事者は、良心の呵責にさいなまれることもあるだろう。
場合によっては、正直に罪を償いたい、という気持ちがあっても、
「閉鎖性」に阻まれてしまうことがあるのかもしれない。

人の罪が贖われるのは、法的な解決や決着だけではない、
当事者の一歩踏み出す「勇気」なのではないか、と思っている。
それが色んな意味で厳しく・つらいことであっても、
被害者の「つらさ」に思いを馳せてみるべきではないか。


第三十九条 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、
      刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任
      を問はれない。