花鳥風月記

流れる水に文字を書く

2022年 新年の辞

あけましておめでとうございます。

今回、恒例の新年の辞を書くことを逡巡しました。

元から昨年を振り返ってもブログそのもの自体が

「ああ、なんか書くことがない」という

世の暗さと徒労感のようなものが巷間に重くのしかかりました。

 

コロナ禍が猛威を振るうなか、結局東京五輪は開催されました。

開会式前には関係者のふさわしくない過去が明るみになり、

辞任・解任・辞退、変更・差し替えと案の定のドタバタ劇を繰り返し、

それでもやり切りました、いや、やり切ってしまいました。

その結果を検証しないよう、官・民・そして報道機関が挙って

不都合な真実の隠蔽をはかり、美談で偽装しようとするさまに

多くのため息と失望感で世間の空気が汚されました。

 

秋の衆議院選挙は、政・官挙げての集合知が、

政権交代への空気を乱し、

何者でない「普通の人」が

「名宰相」のような空気をまとわせることに成功しました。

 

コロナで入院すらできず、自宅で放置され命を落とし、

貧困で食べるものがままならないという状況がある中で、

コロナ対策を失敗していてもメディア露出で人気を博す知事や

東京五輪での数万食の弁当廃棄などは、

明らかにこの国に新たな階級(身分)が設定されていることを

改めて痛感させられます。

 

大きな痛みを抱える人の「痛み」を訴える声は小さく、

さして痛みもない人の「痛み」は大声であることが多い。

ましてや痛みすら無縁な人間に限って他人に「痛み」を強要する。

 

そんな社会を政・官・財、そして情(報道機関)が

手に手を取って、作り上げていきました。

大阪市と読売新聞の提携という「自殺行為」は

まさにそういったことを象徴するものでした。

 

さて、2022年です。

あらゆる問題をそのまま先送りにするのか、

あるいはいくつかの問題が弾けて

動乱のような時代になるのか。

 

政権交代という選択肢は、もう遠い存在のようになってしまったので、

制度よりも「個の良心」がどこまで頑張れるか、

ということになるかもしれません。

すでに明らかではあるはずですが、

日本はもう「二流の国」であることを認めることで

何か変わるのかなあ、と淡い期待を抱きます。

 

「一流の国」という固定観念に縛られすぎて、

文書・統計の改ざんや、情報統制を図っているから

すべておかしくなった。

「二流の国」と認識しながら、再びの出発を誓うなら、

何を清算すべきか、おのずと見えてくるはずです。

 

やりたくもない肩肘を張らない世の中であってほしいと思います。

 

本年もよろしくお願いいたします。