花鳥風月記

流れる水に文字を書く

2024新年の辞

新年あけましておめでとうございます。

昨年は一昨年の元首相そして派閥の領袖の暗殺をきっかけに

今までひた隠しになってきたことが明るみになってきました。

それは政治に限らず、文化・芸術・芸能の分野まで及びました。

業界の盟主・ドンがこの世から隠れたことを契機に

おぞましい(とされる)事実が明るみになりました。

同時にそういった事実に対して

「実は知ってたんだよね」

「実は知ってただろう」

そんな言葉も付録としてついてきています。

 

沈黙は「金」であると、報道に携わる人は

その時は「賢い」選択をしたのかもしれません。

しかし、知ってた上で、今投げつけられる

批判や非難、あるいは罵詈雑言については、

語る人の「愚かしさ」も明白となり、

どことなく鼻白む空気が支配してしまうことは否めなせん。

メディアの退潮はそんなところからも起因しているのでしょう。

 

「失われた30年(あるいは35年)」と言われます。

日本は今や先進国といえるほどの経済力はなく、

そこに住む人の貧乏を加速し、搾取することで、

大企業の株価・業績は延命されている、

そんな事実をメディアは口をつぐむだろうけど、

真面目に働いている人は、感覚としては常識となっているでしょう。

 

また、「失われた30年」という言葉が示すように、

どこか他人行儀というか、他人事のような表現ではないかなと思います。

正確に言うなら

「失った30年」「手放した30年」というべきではないでしょうか。

「失われた」という言葉の奥に潜む

「戦後79年(来年は80年ですね)」の受け止め方の軌跡と

同調する部分も感じます。

 

人は耐え難い惨状を目にすると、

感情を遮断してしまうのではないでしょうか。

それは自己防衛本能かもしれません。

ただ、その本能が時として為政者に付け込まれ、

だんだんと悲劇への道をまっしぐらに進めてしまうかもしれません。

 

ああ、こんなにヒドイ世の中なんだ、

でも今の私にはわずかばかりの貯えや「人権」がある。

彼ら(為政者)が求めるならば、差し出そう。

そんな催眠術のような「身を切る改革」をまだ信じてしまうのかなあ、

と不安と諦念が混じり合う感情で今年を眺めることになるでしょう。

まだかな、いつかな、という一縷の希望も持ちつつも。

 

本年も宜しくお願い申し上げます。