花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景 (35)

顔は見えますか

私たちの生活では、段々と人との接点が失われていくような気がする。
「機械化」が人の手を省いたのに対し、「情報化」は人の顔を奪った。
私たちは、人の温かみを感じることなくモノを手にし、
文字の羅列や情報で人の顔色を伺うことになる。
勿論、可視範囲は、今までと違うことはないのだが、
なぜか距離感は遠い。そして、人と人の間には、
何か空疎な自分を守る「砦」のようなものが存在する。

かつては人の手があっても、顔が見えても、「見えない」時代はあった。
それは、自由に語ることを禁じられ、自由を求めることを罰せられた。
今の時代は、その当時に良く似ている、ということはしばしば聞かれる。

きっと、私たちが享受してきたはずの「自由」のなかで、それを束縛する因子が、
密かに編みこまれていたことが今になって明るみになっているのではないだろうか。

例えば、「機械化」や「情報化」によって、新たな「フォーメーション」が作られる。
要は、人間の「機械化」であって「情報化」である。
そこでは、人間としての「顔」や「身体」や「血液」は必要とされない。

便利である、ということが、実はその便利さに絡め取られて、
その便利さに組み敷かれていることに、もう感づいているはずだ。

自由や平等を謳うことも、じつは、経年劣化を起こせば、
その自由や平等を拘束することになりはしないか。
また、新たな発想・解釈というものが、実はそこに反動のDNAが
コピーされていないか、確かな眼が必要だ。

人の顔を見よう。人と手を繋ごう。


第三十三条 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、
      且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。