マンデラの名もなき看守
シネカノン有楽町1丁目にて。
ネルソン・マンデラの収監時代に焦点を当てた作品。
生誕90年を記念に作られた。
アパルトヘイト政策のなか、幼い頃から黒人居住区の近くに住み、
コーサ語に堪能な看守が、マンデラの担当になることから、
アパルトヘイトに対する疑問を抱き、マンデラとの距離が近くなる。
一旦は、そのキャリアをフイにするような展開になるが、
国際的な世論の高まりの中、改めてマンデラの看守となった。
「歴史のひとこまになりたい」という思いが、彼を駆り立て、
最後には、マンデラの釈放という場面に立ち会うことになる。
1990年のこの釈放の場面は、記憶にある。
そのシーンは、札幌で見ていた。
あるイベントで日本電波ニュース社の幸野尭氏の講演があり、
その後の交流会、そしてスキーを楽しんだあとのホテルの居室にて
一緒にテレビを見ていた。
「他社に先駆けて単独インタビューをしたかったなあ」という言葉が印象的だった。
映画とは違い、マンデラの体躯は、やせ細ってはいたけれども、
話す言葉は、力が溢れていた。
キレイで確かな英語だったため、語学が苦手な自分にでも
そのスピーチは分かりやすく聴こえた。
当時は、アパルトヘイトに対する国際的な世論も高く、
先日、日本に来ていたU2のボノも積極的に活動していた。
ユッスー・ンドゥールも、日本で売れる前には、
「ネルソン・マンデラ」というアルバムを出していた。(名盤だと思う)
また、反アパルトヘイトのミュージカルもあり、
その支援活動の手伝いもした。
映画のなかで「アマンドラ!(英語でいうPower to the people)」と声をあげ、
「ンコシケレリ・アフリカ」を唄っていたシーンには、当時のことが
思い出された。
映画の中で印象的な言葉は、
看守の息子が自動車事故で亡くなったときに、
同じく以前、息子を失ったマンデラがかけた言葉
見えない傷ほど
痛むものはない
(記憶がやや曖昧)
という言葉が印象に残った。
ネルソン・マンデラの収監時代に焦点を当てた作品。
生誕90年を記念に作られた。
アパルトヘイト政策のなか、幼い頃から黒人居住区の近くに住み、
コーサ語に堪能な看守が、マンデラの担当になることから、
アパルトヘイトに対する疑問を抱き、マンデラとの距離が近くなる。
一旦は、そのキャリアをフイにするような展開になるが、
国際的な世論の高まりの中、改めてマンデラの看守となった。
「歴史のひとこまになりたい」という思いが、彼を駆り立て、
最後には、マンデラの釈放という場面に立ち会うことになる。
1990年のこの釈放の場面は、記憶にある。
そのシーンは、札幌で見ていた。
あるイベントで日本電波ニュース社の幸野尭氏の講演があり、
その後の交流会、そしてスキーを楽しんだあとのホテルの居室にて
一緒にテレビを見ていた。
「他社に先駆けて単独インタビューをしたかったなあ」という言葉が印象的だった。
映画とは違い、マンデラの体躯は、やせ細ってはいたけれども、
話す言葉は、力が溢れていた。
キレイで確かな英語だったため、語学が苦手な自分にでも
そのスピーチは分かりやすく聴こえた。
当時は、アパルトヘイトに対する国際的な世論も高く、
先日、日本に来ていたU2のボノも積極的に活動していた。
ユッスー・ンドゥールも、日本で売れる前には、
「ネルソン・マンデラ」というアルバムを出していた。(名盤だと思う)
また、反アパルトヘイトのミュージカルもあり、
その支援活動の手伝いもした。
映画のなかで「アマンドラ!(英語でいうPower to the people)」と声をあげ、
「ンコシケレリ・アフリカ」を唄っていたシーンには、当時のことが
思い出された。
映画の中で印象的な言葉は、
看守の息子が自動車事故で亡くなったときに、
同じく以前、息子を失ったマンデラがかけた言葉
見えない傷ほど
痛むものはない
(記憶がやや曖昧)
という言葉が印象に残った。