「懺悔」
岩波ホールにて。
リニューアルして初めて行く。
座席がやや少なくなったか。座席は白から赤へ。若干低くなった。
平日の昼間だが、客の入りは多かった。
岩波ホールは、1987年に上映された「ローザ・ルクセンブルク」から
なるべく観に行くようにしている。
なので、アズラゼ監督作品の三部作といわれる「希望の樹」も
観たと思うが、1991年の上映、18年前なので、記憶が定かでない。
パンフレットが残っているかもわからない。
今回の「懺悔」は1984年に作られた。25年経ってからの日本公開。
当時はソ連で、ゴルバチョフの登場まで、もう少し時間がいる。
ストーリーは、亡くなった市長であった父ヴァルラム(息子アベルと二役)の墓が
ことごとく暴かれることから始まる。
墓を暴いた犯人は、程なく捕まるが、その裁判で、明らかになってくるのが、
「粛清」を余儀なくされた暗い時代の哀しい物語だった。
市長ヴァルラムの風貌はどことなくヒットラーを髣髴とさせる。
独裁者であるが、精神的な支配も求めるような狂気に満ちている。
何が正しく・何が狂っているかも分からない。
そして、その犯人である女性が、決して復讐ではなく、
市長が何の許しもないまま、墓に入ることを許さない、という
けっして大きな力ではないが、「生」すべてを賭けた力に
市長の息子アベルが崩れ始める。そしてその子トルニケは、父を責め続け、
ついには自責の念に耐え切れなくなる。
アベルは、社会主義国家の一員でありながら、
時に神にすがり「懺悔」をしていた。
そして、自身にも時代の「狂気」が迫ってきた時、
初めて許しを乞うために行動を起こす。
ソ連という時代の圧迫感のある時代でありながら、
静謐な映像で語られている。
映像はけっして鮮明ではないが、
葬儀の時の赤い花、取り巻きの人間の持つ青い瞳が
際立って目立っていた。
また、フェルメールばりの光の使い方が良かった。
室内の陰陽、回想の時の白暮(はくぼ)などは、
ソ連(ロシア)映画らしい芸術性を感じた。
ただ、物語に抑揚が少なかったせいか、
よほど気に入らないと、眠気が襲ってくるかもしれない。
幸い、自分は、前日にタップリと睡眠をとったので大丈夫だったが、
途中、後方でイビキが響いたのは、少々残念だった。
リニューアルして初めて行く。
座席がやや少なくなったか。座席は白から赤へ。若干低くなった。
平日の昼間だが、客の入りは多かった。
岩波ホールは、1987年に上映された「ローザ・ルクセンブルク」から
なるべく観に行くようにしている。
なので、アズラゼ監督作品の三部作といわれる「希望の樹」も
観たと思うが、1991年の上映、18年前なので、記憶が定かでない。
パンフレットが残っているかもわからない。
今回の「懺悔」は1984年に作られた。25年経ってからの日本公開。
当時はソ連で、ゴルバチョフの登場まで、もう少し時間がいる。
ストーリーは、亡くなった市長であった父ヴァルラム(息子アベルと二役)の墓が
ことごとく暴かれることから始まる。
墓を暴いた犯人は、程なく捕まるが、その裁判で、明らかになってくるのが、
「粛清」を余儀なくされた暗い時代の哀しい物語だった。
市長ヴァルラムの風貌はどことなくヒットラーを髣髴とさせる。
独裁者であるが、精神的な支配も求めるような狂気に満ちている。
何が正しく・何が狂っているかも分からない。
そして、その犯人である女性が、決して復讐ではなく、
市長が何の許しもないまま、墓に入ることを許さない、という
けっして大きな力ではないが、「生」すべてを賭けた力に
市長の息子アベルが崩れ始める。そしてその子トルニケは、父を責め続け、
ついには自責の念に耐え切れなくなる。
アベルは、社会主義国家の一員でありながら、
時に神にすがり「懺悔」をしていた。
そして、自身にも時代の「狂気」が迫ってきた時、
初めて許しを乞うために行動を起こす。
ソ連という時代の圧迫感のある時代でありながら、
静謐な映像で語られている。
映像はけっして鮮明ではないが、
葬儀の時の赤い花、取り巻きの人間の持つ青い瞳が
際立って目立っていた。
また、フェルメールばりの光の使い方が良かった。
室内の陰陽、回想の時の白暮(はくぼ)などは、
ソ連(ロシア)映画らしい芸術性を感じた。
ただ、物語に抑揚が少なかったせいか、
よほど気に入らないと、眠気が襲ってくるかもしれない。
幸い、自分は、前日にタップリと睡眠をとったので大丈夫だったが、
途中、後方でイビキが響いたのは、少々残念だった。