花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景 (92)

国体を「国体方式」で

地方分権」は昔から提唱されながら、
未だなされないのは根本的な原因があるからだと思う。
「首都機能=東京」(昔でいうところの「国体」)が揺るがないからだ。

だからこそ、官庁が郊外に移転するならば「都落ち」と言われるかもしれないし、
東京にいることが「ステイタス」に信じられているのは
ある意味、やむを得ない。

とういことは、ものごとの発想の転換も必要になってくる。
ここで極論・暴論を吐くとするならば、
首都機能移転を、恒常的な場所に特定しないようにすればいいのではないかと思う。
「国体=国民体育大会」のように各都道府県持ち回りにして、
国会・官庁全てを毎年移転し、そこの地方自治体と共同統治をする。

そうすると、ハコモノ行政で塩漬けとなったビルの再利用になるし、
様々なインフラ設備(その殆どが過分に投資された)を調整するだけで、
なんとかなるのではないか。
通信機能は、かつての時代よりも技術革新がされており、
むしろ全国の通信機能が等しく高度化されることを考えれば
良いこと尽くめである。

「首都機能=東京」という未練を捨てさせ、
「国家公務員は毎年様々な地方に住む」ということを
前提にすれば、ヤル気のある人だけが国家公務員を目指すのではないだろうか。

また、国家予算も、該当の地方自治体に時限的に(1年間くらい)
ふんだんに予算を与える。
そうすると、毎年のように折衝なり官官接待?というものがなくなり
50年の計(持ち回りの順序)もしくは2県にまたがるなら25年の計が立てられる。

まあ、勿論、使い切れないおカネを出しても仕方ないわけであって、
例えば、ファーストフードのお店に行って、
1万円分買って食え、と言ったら、それは多分イジメになるだろう。

大事なことは、その自治体が、その予算――言葉の正確な解釈からしても――
長期的かつ計画的に使おうというインセンティブが働くかどうかである。
50年はどうかと思うが、25年くらいであれば、ひとりの公務員が、
その人生で1度は目一杯の仕事が出来る――ある意味世の中を動かせる――
というモチベーションが上がりそうな仕事になるともおもえるのだが…。
そうすると、既得権益にこだわりがなくなり(順番がくるから)、
「仕返し」を恐れて「贔屓」や「不正」が無くなるようなきもするのだが…。


第九十三条 地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として
      議会を設置する。
    2 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、
      その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。