花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景 (93)

スーパー・カルチャーとグローバリズム

学生のころ、グローバリズムという言葉がさほど有名ではなかったころ、
ケネス・ボールディングの本で「スーパー・カルチャー」という言葉に接した。
世界中の至る所にマクドナルドなどのアメリカ発の「文化」が広がる、というもの。

これが、今で言う「グローバリズム」へのつながりとなるものかと思うが、
決して好意的なことだけでもないことは明らかだった。

反グローバリズムとしてのスローフードや景観保全のための様々な運動が想起される。

かつては文化(文明)は「伝播」という言葉が使われた。
経緯はどうあれ、徐々にかの地に「浸透」するというもの。
一方でスーパー・カルチャーはその順序・順番を待ってはくれない。
圧倒的な物量で、地域や社会を席巻し、根こそぎ剥ぎ取るという印象を持つ。
かつて育まれた社会の「空気」が一変することもある。
それは、社会から「個」が抽出され、その感情のおもむくままの
消費性向を示し、ついには「個人的な幸福の追求=エゴ」の抽出へとつながり、
向こう3軒両隣が分からないような社会になってゆく。

その姿=都会にありがちなものは果たしてあるべきものなのか、と考えてみれば、
帰省ラッシュに圧される日本の夏の風景を見れば、
自ずと答えは見えてくるような気がする。

発展への途は決して一つではないこと、それに気づくことが、
地方の「良識」ではないだろうか。


第九十四条 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を
      執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。