花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景 再び(13)

最大の尊重?

少し前、地下鉄で、大塚家具の広告が目立っていた。
「日本最大級」「首都圏最大級」「神奈川県最大級」と
なんでも「最大級(級があればナンバーワンでなくても良い)」をPRしていた。

百貨店等の閉鎖店舗のあとに入ることも多かったが、
やはり、閉鎖の「ツキのなさ」は、そのまま不景気にも当てはまり、
現在は、さほど「最大級」を売り文句にしなくなった。

ものごとの大きさについて考えてみた。
40代以上の方は「大きいことは良いことだ」が耳にこびりついているだろう。
そう、ジャンボ・ジャイアント・ジャイアンツはどことなく「味方」だった。
(ジャンボ鶴田ジャイアント馬場読売ジャイアンツと考えるとなぜか日テレ…)

ものの形容に、サイズはイメージがつきやすい。
しかし、動作においては、正直よく分からない。

「最大限の努力をします」という言葉などはやってなくても言える常套句でもある。

さて、この条文にある「最大の尊重」だが、もうお分かりかもしれないが、
「尊重」に最大も最小もあるのだろうか?

この謎を解くカギは、おそらく草案の英文によるのではないだろうか?

ここからは想像の範囲だが、英語圏の人間と日本人との間に
その動作の根本の認識が違うのではないだろうか。

つまりは、動作の中にじつは「愛」というものが存在しているように読み取れる。
少なくとも、この文章を作った人たちの中では、
そういった精神的支柱があるのではないか。
それが、キリスト教的な精神かどうか分からない。
しかし、すくなくとも「お上」が作り上げる「ご託」のようなものより、
身分の高貴が特にない、人が作り上げた社会の中で築かれた文章であるように思う。

そういう観点でいうと、日本国憲法は「愛」のある憲法ではないかとも思える。
つまり、「最大の尊重」という言葉の中には、
人との交わりの中で、常に己のもつ「最大の愛」を必要とする、
結構プラトニックな条文であるかもしれない。


十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する
     国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、
     最大の尊重を必要とする。