花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景・再び (18)

奴隷的拘束?

言葉のリアリティが薄くなってしまうものがある。

例えば、大学生になって、はじめて経済原論を学んだ時。
当時の原論は二種類あって、ひとつはマルクス経済学だった。
資本論』を土台にした入門書による講義は、大教室の中の
少人数授業にこだました。

ひたすら良く分からなかったのが、「1エレのリンネル」。
エレはきっと、リンネル(布)の単位だと思うが、その後の人生においても、
この単位に出会ったのは、この時だけだった。
いまでも大きさ・重さがまったくわからない。
勿論、大学の授業だから、分からないことは、自分で調べろ、ということでもあるが、
1エレを正確に知っているだろうと思う同世代の人物にめぐり合ったことがない。
いたとしたら、奇特な人間に思うだろう。

また、別の大学教員にいわせれば、
ああいった時代の文章は、当時の労働者でも分かるようにしてある、
といったことを話していたが、さすれば、教養は退化したのであろうか。
決してそうではなく、明らかに時代の違いが、物事のリアリティを奪っているのだろう。

かつて、共同通信社の外信部記者の話を聞いたとき、
英文学の大家であるシェイクスピアをこの世に復活させても、
きっと英語を理解できないであろう、なぜなら「今」を知らないから、
と言っていた。なるほどな、と思った。

言葉は残されるが、その残った言葉が生き続けているかどうかは難しい。
その時代から、隔世される。尚もその言葉に輝きを持ち続けるには、
様々な言葉の意味、それ以上に印象・イメージを感じること必要ではないか、と思う。
まさに「思いを馳せ、心に刻む」ことが大事かもしれない。

1991年のアパルトヘイトの撤廃以降、制度的な人種隔離はなくなったとされる。
そして、社会的にも、差別は薄れつつあると思われている。
しかし、見方によっては、それは目に見えない形で根強く残されると言った人もいる。

「奴隷的拘束」、という言葉を聞くと、
アレックス=ヘイリーの「ルーツ」のクンタ・キンテを
思い出すという短絡的な思考だが、
考えてみると、「奴隷的」というリアルな感覚がないことに
背筋が寒くなることがある。
その悪寒とは、「奴隷的」という言葉への想像力の欠如なのか、
現代の「奴隷的」状態に気付かないという視界の不明さなのか、
判断がつかないことによる。

つまりは、現代社会にも、様々な「拘束」が存在するが、
その形態一つ一つに潜むべき「本質」が何か、を問われているような気がしてならない。


第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の
     場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。