花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景・再び (23)

学?問?

教育の戦後史を振り返ると―なんて大ざっぱな括りなのか(苦笑)―
「学問の自由」のうち、「学ぶ自由」はある程度の保障はされていたと感じる。
義務教育も含め、学ぶ機会は―それはどういった内容・質かは別として―
平均的で均質な教育水準の向上に寄与した。
同時に、「平均的で均質」であるために、「問う自由」の保障については、
いささか覚束ない。

例えば、かつて様々な講演会に参加したとき、
司会者が質問を振ると、水を打ったように、静かになる。
聴衆の殆どが、おすまし屋さんなのか、果ては質問を感じる感性がないのか、
KYなのか、とも恨みつつ、手を挙げていた。
そういえば、雑誌でも「ケイコとマナブ」はあるが、「トウ(問う)」はない。

勉強は、学ぶものだと「コレだけ」というハウツー・マニュアル本にしがみつき、
なぜ?を考えずに効率的に知識欲を満たす。
それはそれで合理的かもしれないが、
それらは全て「効用(消費による満足)」に行き着いてしまう。
だからこそ、なのか、大学やあらゆる教育機関のなかで
「満足度」や「教育内容評価」が出てくる。
経済に毒された市場原理を持ち込むことは、正直どうかと思う。
市場至上主義者?は「競争によって質の向上を得られる」と言うのだろうが、
そもそも、競争という時点で、「問う自由」は束縛され、棄てられる。

本来、「問う」ことが、多くの寄り道・四方山を求め、
某かの「発見」と「進歩」を手に入れることができる機会となる。
当然、そういった先達がいれば、後進も育ちやすくなるが、
残念ながら、現代ではその先達は先細りしているとしか思えない。

つまるところ、学ぶ立場の人間(主に若者)の質の低下を憂うよりも、
その問いに応える先達の質の低下の方がよほど深刻なのだ。


第二十三条 学問の自由は、これを保障する。