花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景・再び (27)

酷使…

お盆は、テレビも特別番組を企画する。
NHKでも、日韓の若者を集めた討論会をやっていた。
いつものように、かみ合わない議論、
「新時代」という古い表現、
深まる溝は、季節の風物詩すら思える。
とても見続ける忍耐力がなく、10分程度でギブアップした。

しかしながら、今回は更に唖然とさせる光景がそこにはあった。
なぜか黙々と携帯をいじっている人たちがいた。
テレビ画面には、いわゆるツイッターのような、
「スタジオのつぶやき」がテロップに流れていた。
とうとうここまできたか、という悲嘆があった。

いつだろうか、「こち亀」で電極+が登場した時のこと。
目の前にいる両津勘吉を尻目に、ひたすら携帯メールで意思を伝える。
そんなギャグマンガのひとコマが、とうとうやって来た。

恐らく、利点を意識して、「とりあえず目新しいことをやってみよう」
ということだろう。
いつも討論番組であれば、パネリストの怒号・罵声が響き、
固陋な司会に阻まれて、会場の意見は殆ど取り上げられない。
壁一面に書かれた文字は、その視野も与えられない。
画面を流れるテロップであれば、目に触れることができる。
それもオンタイムのツイッター方式なら…。
考えた人は、もしかしたら、膝をぽん、と打ったかもしれない。

しかし、である。所詮は、電極+でしかない。
画面に映った会場の若者は、ひたすらうつむき、携帯を睨み、
指を縦横無尽に動かしている。異様な光景でもある。
また、つぶやいた人が直接話すこともあり、一体何のため?
と首を傾げること、しきり。
彼らは、指も、人格も酷使されてしまった気がする。

「新時代」というのは、向かい合って話すよりも、
顔を伏せて携帯でつながることになるのだろうか?
分からない、マッタク分からない。

歴史の事実や認識を問う場面においては、
どれだけ事実に対する想像力を起こさせることができるかではないか。
事実というのは、記録であるならば、色も何もついていない。
しかし、人間の記憶というのは、様々な色があるだろう。
次の世代、いや今や「次の次の世代」もしかしたら「次の次の次の世代」と
記憶が消えて行く時代に情報技術は必要になるだろう。
そのときには、無色透明な技術革新の色は、
何らかの色で縁取られなければならないかもしれない。

その色が決して「官製」でないように、
それこそ「新時代」の歴史の共有で彩られるように…。


第二十七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
    2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、
      法律でこれを定める。
    3 児童は、これを酷使してはならない。