花鳥風月記

流れる水に文字を書く

愚短想(296) 「disり考」

現代の言葉で「disる(ディスる)」という言葉がある。
英単語の接頭語とでも言うのか、「否定する」というニュアンスらしい。
ただ、その否定の意味合いがどうにも気になる。

何というか…存在そのものの否定という感じがしないでもない。
ま、ネットの世界の言葉であれば、そういう風になってしまうのは、
致し方ないのかもしれない。
しかし、それが人間としての行動規範(ことば・ふるまい)に
組み入れられるとしたら、相当度、厄介なことになるだろう。

例えば、人間の表情を見て言えることと、
モニター(画面)を見て言えること。
現実にも、そこには二面性(ひょっとしたら多面性)が潜んでいる。

今回の選挙の結果を見ると、
惨敗を期した政党は「懲らしめる」という観点より
「disる=存在を否定する」という感覚が備わっていた気がする。
無論、存在意義そのものが曖昧なものであれば、
実体がないことによる抽象性の攻防ということになろうが、
ネット解禁選挙のなか、ルール・マナーはこれからとして、
「disる」ことに、ある種の快感・快楽に興じたという事実が
あったと思えてならない。
だからこそ、ネットの世界と実体の趨勢の乖離が生じているのではあるまいか。

「disる」という行為は、非常に切れ味が鋭い。
斬ったり斬られたりというのが、必ずしも健全な世の中になるとは
とても思えない。