花鳥風月記

流れる水に文字を書く

愚短想(297) 選挙についての考察

この夏の宿題のような感覚として
「選挙」について考えようとしていた。
勿論、何か結論めいたことなどはないのだが、
思うところを書きとどめるには良い機会と思う。

選挙は「選択」なのか。
選びたいけど、自分に合った候補者がいない、ということがある。
その時は「よりマシな候補者を選ぶ」というのが適当な答えになろう。

ただ、「選ぶ基準」が一体何なのか。
無論、個々によって違い、それこそ千差万別といったところだろう。
しかし、ここ何年もの選挙を見ると、是非を決める論点が
ぼやかされたり、隠されたり、単純化されていることが多くある。
そうなると「選ぶ」とか「よりマシな」という段階すら
有権者に与えられていないのではあるまいか。
選ぶことに関して、有権者やメディアが候補者に対して
「もっと論点を示せ」と言い寄ることは決して多くはない。
そうすると、選挙は「選択」ではなく、何であろうか。

思うに、「委任」と「忍耐」という感じに近いのではなかろうか。
「なんかわからんけど、おまえに任すわ、なんとかせえ」
なぜか関西弁な、そんな感覚。

候補者は、政治にかかわりたい(あるいは「議員になりたい」)という
強い意志を持っているのだから、それを支えて当選させよう、という考えもあれば、
オマエを認めてやる、という2つの感情が存在する。
前者は「風」が吹かないと当選が難しく、
後者は何がしかの集票システムや確固たる選挙風土があれば、当選はしやすい。

「今の選挙の参加の感覚」という極めてあいまいなものを
あえてそのまま使うとしたら、有権者の無責任さというのが根深いものに思える。
これはメディアが論じたら、「大上段に構えた」と批判され、
候補者が言えば、人心が離れてしまうだろう。
これは「言わぬが花」みたいなものである。

それがゆえに、投票率の低下は止まるところを知らない。
先日の横浜市長選挙の投票率は3割を切ったようだ。
仮に得票率が8割であっても、横浜市民の24%にも満たない
(当然20歳以下はカウントされない)人が市の代表になるなんて
考えてみると恐ろしい。

何が恐ろしいかと言えば、
370万人いるとされる横浜市民のなかで、
70万人に満たない支持者で選ばれた人が市長になっている。
そして、その人が3兆円もの予算を使おうとしている。
3兆円の大きさが分かりにくければ、3万億円。
宝くじ3億円当選者が1万人いる、という数字。
ああ、こわい…。

そんな歪みがあちこちで出ていると思う。
おまけに小選挙区制度になってから、さらにひどくなった。
そのひどさは、周知(羞恥?)となっているので、あえて触れない。

やはり、政治への「参加者意識」が課題なんだろうと思う。
先日の衆院選では、そういった参加者意識を向上させる取り組みが
いくつもあった。

とにかく、票を入れる。そこで学んで、次も入れる。
その時に、どうすればいいかを知る機会がしっかりある。
この循環が必要なのだろう。

とにかく、メディアは池上彰に頼らず、
物量戦で、政治家ではない、政治・社会報道を。
教育の現場では、道徳教育ならぬ「選挙教育」で
もっとましな時代になることを目指した方が良いのでは、と思った。

「委任」から「選択」というのが、
日本を「とれもろす」ことになるのではないかと…。
今は「委任」状態だから、改憲でも何でもやろうと
躍起になっとるかもしれないが…。