花鳥風月記

流れる水に文字を書く

ヒロシマナガサキ

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神保町の岩波ホールにて。
先日の「TOKKO―特攻―」に続き、日系アメリカ人の映画監督が手がけた映画を観る。
今回は、題名のとおり、広島・長崎の原爆被爆者についてのドキュメンタリー。
ティーブン・オカザキ監督は、パンフレットの中でこう書いている(少し長いが引用する)
ドキュメンタリー映画とはシンプルなものです。良い映画、興味深い登場人物、そして
物語をどのように語るかによって、観客と登場人物を結びつけることができるのです。
そうした意味では、ドキュメンタリー映画と、一般の劇映画との違いはありません。
ですから、物語を語ることなく、メッセージをただ伝えるだけのドキュメンタリー映画
観ていると、苦痛を感じます。そうした作品では、あらゆる事柄―つまり、物語の展開、
登場人物、映画の見え方や様式など―は、メッセージを補強するために使われてしまいます。
最初の5分間で、映画製作者の政治性、映画に出てくる誰がいい人物で誰が悪者か、あるいは、
観客がどのように考えたり、感じたりすべきか、ということがすぐに判ってしまうのです。
私はメッセージ映画には興味はありません。たとえ、それが良いメッセージを伝えるものであっても」
                                  (パンフレット8ページ)
今までも戦争映画や原爆を糾弾する映画を観てきた。戦争や原爆の凄惨さを感じながらも、
確かに、メッセージ性の強さに逆に違和感を感じることがあった。
それは一種の寓話性と理解したこともあったが、何よりも、作り手の生々しい記憶が
そうさせたことかもしれない。
「TOKKO―特攻―」もそうかもしれないが、戦争の記憶・記録・思い出は次の世代、
新しい世界に引き継がれる時期になってきている。その時、記憶・記録・思い出を
正しく伝えるにはどうしたらいいか、の問いかけも詰まっているかと思う。

映画に作りは、被爆者のインタビューを追いながら、それぞれの個人史を振り返ってゆく。
当然、そこには、原爆によって翻弄(言葉が軽すぎるくらい)された人生が刻まれる。
戦争末期の沖縄戦。東京・大阪・神戸の大空襲、そして広島・長崎の原爆。
いずれも共通しているのが、民間人の無差別殺戮だった。
国家や国家思想の是非は当然あることとして、各個人の歴史は、その「死」の記憶が
刻まれている。それは、広島・長崎の人にとっては、被爆という肉体的・精神的な「傷」として。

戦後、「原爆乙女」の渡米の際、TV番組で、同伴した日本人牧師とエノラ・ゲイ号の副機長の
対面があり、握手を交わし、被爆者への治療に際しての募金に応じる、というシーンがあった。
これは何を意味しているのか。その握手にはいろいろな思い―憎悪も含めて―あったのかも知れない。
但し、これが米国人の贖罪とはならない、というのは、見ている人全てが感じることだろう。

はだしのゲン」作者の中沢啓治が終盤に憲法9条について語っていた。
大量無差別殺人についての記憶と、この尊い命の犠牲の上に得られた戦争放棄であり、
守って行かなければならない、ということにつながってゆく、ということをと感じた。