花鳥風月記

流れる水に文字を書く

愚短想(14) 「手当て」の効用

ブログの更新が少し空いていたのは、「食あたり」のせいだった。
土曜日は仕事だったが、何度もトイレに入る始末で、途中から身体に力が入らなくなってしまった。
なんとかしのいで帰宅すると、睡眠不足も追い討ちをかけ、熱っぽくなっていた。
前の日の「はまち」のせいか、それともその昼に食べたメガマックマックポークの一気食いが
悪かったのか、真相は分からないものの、節制が必要な歳になっていることはいうまでもない。
とにかく横になっていた。
すると母親が、お腹をさすってくれた。
いい歳こいて、情けないなあ、というか、恥ずかしいなあ、と思いながらも、
不思議と痛みが和らいだ。
思えば「手当て」という言葉から分かるとおり、最も原始的な治療行為なのかもしれない。
また、不思議と母親の予言は当たる、というより、変な「まじない」がかかるのかもしれない。
油モノとりすぎ、食べすぎ、とよく注意されるが、「飲みすぎ」とは言われない。
血統的に下戸だからか…。
ただ、階段を踏み外し、足を折ったときは、ハンカチでゆるく縛られたが、これは医者に言わせると
「全く意味が無い」とのことだった。「魔法の力」には限度・限界はある。(当たり前か…)
「手当て」の効用とは、「安心」なのかもしれない。仮に病院に行ったとして、
良く分からない薬を処方されたり、注射されるのは、医学的に正しいのかもしれないが、
こころの治療とは、ちょっと角度・次元が違うのかもしれない。

病院にいると、よけい病気になってくる、とは父親が言っていた。
確かに規則正しい生活とは、そして治療に正しい生活とは、
どこか機械的で、「支配される」感覚ができてしまうものだ。
民間療法まで話は広げないが、「手当て」という意味合いのなかでは、
病んだ人も家族の一員であることの安心感があると思う。

さて、その後は、朝までうなされたが、翌日はほぼ元通りになった。