シッコ
日比谷シャンテで、マイケル=ムーアの「シッコ」を観る。
日比谷シャンテは割と銀座の映画街のなかでは、殿様商売チックな印象を持つ。
劇場も席の前後が狭く、傾斜が急でもある。
このブログも100回目を迎えた。
マイケル=ムーアの映画は、これで3本目だが、今回は、政治的な色彩よりも、
より直接的なメッセージが強い印象を持った。それは、医療保険制度に照準を
当てたものだが、保険会社の非道なことは勿論だが、やはり、アメリカ社会の
病理について、問題提起をしているのだと思う。
先進国で唯一、公的な医療保険制度がない。
共働きで、それぞれしっかりとした稼ぎがあったにもかかわらず、
度重なる治療で、棲家の売却を余儀なくされる、または薬を買うため、重労働を強いられる、
そして極めつけは、治療・入院費用が払えずに、病院から、貧民街に捨てられる患者がいる、
という事実だ。貧民街の保護を当て込んだ病院の狡猾な目論見かもしれないが、現代の「姥捨て山」
を見るようだった。
医療制度の比較のため、イギリス・フランス・キューバへ行く。
ほとんどが、無料での医療が保障され、安心して治療に専念することができる。
イギリスの病院で、出産を終えたアフリカ系の夫人の穏やかな笑顔が印象的だった。
フランスでは、子育て支援の際に、洗濯まで頼める制度に眼を疑ったマイケル=ムーアが実際に
そういった家庭を訪れる。
当初はキューバにあるグァンタナモ米軍基地で、9.11の後遺症で病気になり、
治療の機会に恵まれない人の治療を求め、拒否される。
そして降り立ったキューバ国内で、理想的な治療を受けることができる。
米国では12,000円するとされた薬品が、キューバでは5円程度という落差。
患者がほんとうに心から感謝をして、キューバで治療を受ける姿は、どちらが豊かな国かが
分からなくなるような落差がある。
(そいういえば、キューバ映画の「苺とチョコレート」では、冒頭のシーンが、飛び降りをした
人の救急治療シーンだった。医療制度が整っているキューバの、アイロニーも含む表現だった)
隣の芝生は青く見えるのは仕方ないとして、今回の問題は、その国々で、
それぞれ選択した・あるいは選択されてしまったことの積み重ねではないかと思う。
アメリカでは、大金持ちになる代わりに、貧困層もでることを余儀なくされる社会を、
国は貧しいかもしれないが、安心して病気・治療を出来る制度を作ったキューバ社会、
国に対し常に運動することによって、権利を勝ち取ったイギリス・フランス社会。
アメリカが求め、守ってきた社会は、案外、生き辛い社会なのかもしれない。
そしてそれは、時代を経るにつれ、ひどくなってきたのではないだろうか。
最後に印象に残ったシーンの言葉はうろ覚えだが、大体以下のような内容だった。
どの国も、一つの船にいるようなもので、一緒に泳ぐか・一緒に溺れるかを選んでゆく。
アメリカも「私」ではなく「私たち」としてどう考えてゆくか…。
アメリカの市民社会は(日本と比べても)まだ、良い部分もあるとおもうが、
今回は、小田実が最期に著作で書いたような、「中流」層の弱体化を招き、
強いては市民社会の弱体化につながっていることを表しているような気がする。
いろいろと考えさせる内容の多い映画だった。
ただ、気になったのは、以下の2点。
その1、プログラム(パンフレット)の内容がお粗末すぎる。700円は便乗価格。全くダメ。
その2、アメリカでこれだけ、保険の負担をケチるような会社なら、日本の外資系保険会社は
大丈夫なのだろうか。
日比谷シャンテは割と銀座の映画街のなかでは、殿様商売チックな印象を持つ。
劇場も席の前後が狭く、傾斜が急でもある。
このブログも100回目を迎えた。
マイケル=ムーアの映画は、これで3本目だが、今回は、政治的な色彩よりも、
より直接的なメッセージが強い印象を持った。それは、医療保険制度に照準を
当てたものだが、保険会社の非道なことは勿論だが、やはり、アメリカ社会の
病理について、問題提起をしているのだと思う。
先進国で唯一、公的な医療保険制度がない。
共働きで、それぞれしっかりとした稼ぎがあったにもかかわらず、
度重なる治療で、棲家の売却を余儀なくされる、または薬を買うため、重労働を強いられる、
そして極めつけは、治療・入院費用が払えずに、病院から、貧民街に捨てられる患者がいる、
という事実だ。貧民街の保護を当て込んだ病院の狡猾な目論見かもしれないが、現代の「姥捨て山」
を見るようだった。
医療制度の比較のため、イギリス・フランス・キューバへ行く。
ほとんどが、無料での医療が保障され、安心して治療に専念することができる。
イギリスの病院で、出産を終えたアフリカ系の夫人の穏やかな笑顔が印象的だった。
フランスでは、子育て支援の際に、洗濯まで頼める制度に眼を疑ったマイケル=ムーアが実際に
そういった家庭を訪れる。
当初はキューバにあるグァンタナモ米軍基地で、9.11の後遺症で病気になり、
治療の機会に恵まれない人の治療を求め、拒否される。
そして降り立ったキューバ国内で、理想的な治療を受けることができる。
米国では12,000円するとされた薬品が、キューバでは5円程度という落差。
患者がほんとうに心から感謝をして、キューバで治療を受ける姿は、どちらが豊かな国かが
分からなくなるような落差がある。
(そいういえば、キューバ映画の「苺とチョコレート」では、冒頭のシーンが、飛び降りをした
人の救急治療シーンだった。医療制度が整っているキューバの、アイロニーも含む表現だった)
隣の芝生は青く見えるのは仕方ないとして、今回の問題は、その国々で、
それぞれ選択した・あるいは選択されてしまったことの積み重ねではないかと思う。
アメリカでは、大金持ちになる代わりに、貧困層もでることを余儀なくされる社会を、
国は貧しいかもしれないが、安心して病気・治療を出来る制度を作ったキューバ社会、
国に対し常に運動することによって、権利を勝ち取ったイギリス・フランス社会。
アメリカが求め、守ってきた社会は、案外、生き辛い社会なのかもしれない。
そしてそれは、時代を経るにつれ、ひどくなってきたのではないだろうか。
最後に印象に残ったシーンの言葉はうろ覚えだが、大体以下のような内容だった。
どの国も、一つの船にいるようなもので、一緒に泳ぐか・一緒に溺れるかを選んでゆく。
アメリカも「私」ではなく「私たち」としてどう考えてゆくか…。
アメリカの市民社会は(日本と比べても)まだ、良い部分もあるとおもうが、
今回は、小田実が最期に著作で書いたような、「中流」層の弱体化を招き、
強いては市民社会の弱体化につながっていることを表しているような気がする。
いろいろと考えさせる内容の多い映画だった。
ただ、気になったのは、以下の2点。
その1、プログラム(パンフレット)の内容がお粗末すぎる。700円は便乗価格。全くダメ。
その2、アメリカでこれだけ、保険の負担をケチるような会社なら、日本の外資系保険会社は
大丈夫なのだろうか。