花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景 (10)

今回は、ここまで書いてみて、感じたことを書き留めておきたい。
季節の影響もあったかもしれないが、第1章「天皇」については、
(結果として)「空蝉」という題で読み替えてみた。
つくづく、憲法を考える季節は、夏、というのが、自分の中に刷り込まれているらしい。
もっとも、日本国憲法の公布は1946年11月3日、施行は1947年5月3日なので、
本来ならば、別の季節でもあって良いのかと思う。
それでも、そうつながるのは、戦争を経て作られた、という連続性によるものだからかもしれない。
また、これから触れる、第2章「戦争の放棄」第9章「改正」については、条文が1つしかない。
そして、この2つが、現在最も注目されている部分でもある。
これについては、素人目からみて、2つの側面があると感じている。
一つは、シンプルに書き上げることで、より詳細は、後の人々の議論に委ねる、という見方。
もう一つは、例外なく守るべき内容だからこそ、余計な文章を付けずに、書き上げた、という見方。

改憲・護憲・論憲・活憲など、「憲」の上につく漢字は今まで多く見てきた。
かつて英字新聞で、「蔑憲」だか「侮憲」という毛筆で書かれた記事を見たことがある。

敢えて言うなら、憲法を変えたから、幸せになるとか豊かになる、ということはない。
本当に幸せになりたい・豊かになりたいならば、今を精一杯生きて、
そこで何かを変えるべきベクトルが生まれるのでは、と思う。
「変える」ことに固執して、表紙やラベルに惑わされて議論が進むと、
いつの間にか本来の趣旨をずれることは多々あるし、実際、そうなってきたと思う。
きっとそうなることを政治家やマスコミや学者は良く知っているのだと思う。
なぜなら、彼等(彼女等)は良く勉強し、良く知っている(または知る機会に恵まれている)。

  横目でとなりを覗き、自分の道を確かめる
  またひとつズルくなった
  当分、照れ笑いが続く
         (泉谷しげる「春夏秋冬」)

彼等(彼女等)の照れ笑いの向こうには、「失望」が待っているような気がしてならない。