花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景 (12)

免許に関する省察
近年、高齢者の自動車免許の返納を呼びかけていることを良く聞く。
確かに、視力・体力の衰えや、若い頃の勢いで、事故に遭う可能性がないわけではない。

教員免許も更新制に、との声がある。不可解なことに、これから免許を取る人が対象で、
今までの人は関係ない、との見解がある。

免許は確かに、その技術や「品質」を保証する一手段ではあるが、
その一方で、絶えず既得権益による腐敗の温床という側面を避けられない。
免許を持っていても下手な運転をする人もいる。
誰もが取れる、ということは、そういうリスクを背負い込むことになる。
ただ、一つのことをひたすらに続ける人には、ある種の敬意も生まれる。

例えば、偏見かもしれないが、医者と板前は、年寄りの方が安心する。
今日は職場近くの耳鼻科に行ったのだが、そこの院長は、聖路加の理事長よりは
歳はいってないと思うが、手も足も静止することができない。
患者の説明も、患者への説明も、看護婦さんが間に入って、通訳をする。
鼻や喉に薬を塗るのだが、手元が定まらない。
治療は一瞬の出来事で、触ったことを感じさせない「神業」なのか、
単に手がふるえて、塗れなかったのかどちらかだ。
ただ、たまに鼻に薬を付けようとして鼻の穴を外すこともあるので、
限りなく後者に近いのかもしれない。
それでも、若い人が診るよりも安心感があるのは、なぜだろうか。
医術は仁術、という古い言葉の記憶があるのかもしれない。
きっと何十年も、人の鼻や口の中を見てきた、という自負が
その老いた身から滲み出ているのかもしれない。

定年になったから、という時間的なものさしで、仕事の正確さが失われるわけではない。
人によっては、もっと早くから衰えるかもしれないし、その逆もあるだろう。

免許というのは、何かを価値付ける、ということではなく、一つの「通行手形」ではないだろうか。
そこから極めるべき、何かがあるのであって、そこがゴールだと思えば、
人間として発展はそこまでとなってしまう。

第三章 国民の権利及び義務
第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。