花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景 (20)

所属と拘束と奴隷と
人間は「自由」を求めながらも、「自由」であることを恐れる。
前者は「政治的な自由」であり、後者は「経済的な自由(失業)」と読み取ることが出来る。
自由の持つこの二面性は、時に人間社会を狂わすこともある。
経済的な安定を求めて、政治的な自由(もっと広義に人としての「自由」)を手放すことがある。
少し時代を遡っても、バブル期に起きた過労死、
バブル経済が破綻し、「失われた十年」がもたらしたリストラによる自殺。
富んでいても、貧しくとも命を失うことがある。
一方は、競争の過熱で、もう一方は生き残りをかけた「生存競争」で。
両極端でありながらも、同じ結果をもたらしたことに注目すべきではなかろうか。
どちらの時代にも共通していること。これを冷静に見てみよう。

頑張りすぎなんだと思う。それも疑問を持たずに。
いや、持っていても黙殺して、只管(ひたすら)突き進んできたのかもしれない。
それが、暗黙の世界の「美徳」であり、「生存手段」であったのかもしれない。
疑問の声を上げてみよう。ほんとうは誰しもが感じていたことかもしれない。
いや、その誰かの中の何人かは、その声を待っていたのかもしれない。
その声を待つこと自体は、確かに隷属的な感情であり、一方で「賢い手段」かもしれない。
でも、一度、道化でもいいから、なってみよう。
意外と気持ちが良いものかもしれない。その気持ち良さを感じ、伝えることが大事なのかもしれない。
それが「自由」だと思う。
自由には「責任」や「義務」もあって、人はそこからは逃げることはできない。

こういった物言いは、E=フロムの『自由からの逃走』が遠景になっているのかもしれないが、
残念ながら学生時代、読まなかった。
後年リベンジを期したいが、この本を開けた最初の言葉が目にとまり、
当時19歳のメモに書いてあった。

 もし私が私のために存在しているのではないとすれば、
 だれが私のために存在するのであろうか。
 もし私が、ただ私のためだけ存在するのであれば、
 私とはなにものであろうか。
 もし今を尊ばないならば―いつというときがあろうか
                          (「タルムード」第一編「ミシュナ」)


第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、
     その意に反する苦役に服させられない。