花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景 (29)

労働からの「自由」
ここ最近、仕事の疲れがたまりやすくなった。
まだ老け込む歳でもないが、それにしても、10年前のようにはいかない。
「無理」をしたくない、と思い始めたのはいつごろからだろうか。

働かずに暮らす、ということを考えると、魅力よりも不安が先走る。
一日何をして過ごそうか、そんなことを毎日考えなければならないのか。
勿論、趣味を多く持てば、ということも無くはないが、きっと一週間ももたないような気がする。
だいいち、カネが続くのか。
母親は、専業主婦であることを望まない。今でもパートに出て、家賃くらいは稼ごうとしている。

かつて、「経済原論」を学んだときに、「労働からの自由」という言葉に突き当たった。
「過酷な労働からの解放」と当初思ったが、じつは、「失業」という意味だった。
労働者は生産手段を持たず、「労働」を拠出して日々の生活費を得る。
同級生に「ものの価値とは何か」ときかれたことがある。回答を用意する前に
即座に「労働です」と言葉が次いできた。

歴史を遡れば、過酷で違法な労働から解放され、市民社会のルールができた。
しかし、どんな時代にあっても、生活をするための「経済」活動において、
その経済の「けもの道」に身を委ねなければならない。
また、人間は確かに、何かに属することによって、安心を得ることがある。

最近の不景気による、この労働からの「自由」に対し、どう受け止めてゆくか。
いま、その「自由」に苦しむ人の前では、市民社会のルールを説いても
空疎に受けとめられるかもしれない。
「働けたらとにかく」という切実な願いもあるだろう。
そのための「偽装」もやむなし、と当事者は割り切ってしまうかもしれない。
にもかかわらず、あえて「権利」を「権利」として主張することは、
めぐりめぐって、自分自身においても必要なことなのかもしれない。

今、自分たちを守る「砦」は、小さく脆いものかもしれない。
ただ、その境遇を「共有」することによってこころの「砦」ができるのかもしれない。

第二十七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3 児童は、これを酷使してはならない。