サラエボの花
神保町の岩波ホールにて。
最初3分程度、遅れてしまった。
日本の映画タイトルと原題に若干の違いがある。
舞台は、ボスニア。ユーゴ内戦の後遺症が色濃く残りながらも、
人々は生活の糧を得るために、細々と生活を営む。
そして、その家庭環境ですら、内戦による幾多の傷跡が―
身体的にも・精神的にも深く刻まれている。
主人公エスマは、かつては医大生だったが、内戦の際、
強制収用と集団レイプによって、娘のサラを身ごもり・産んだ。
今では、裁縫の仕事で、糊口をしのいでいた。
ある転機が訪れる。
それは、娘サラの修学旅行に必要な旅費を用意しなければならなかった。
ナイトクラブでも仕事をはじめるが、その退廃ぶりにふさぎこむ日々を過ごす。
サラは、自分の生い立ちを知らず、また父親の存在を知らずして、思春期を迎える。
特有の親子の軋轢関係も交え、母親の新たな恋に、自分が捨てられることを恐れつつ、
重たい日々を過ごしていた。
やがて、自分の父親が、殉教者(シャヒード)ではなく、
レイプによって生まれたという事実を知る。
しつこく母親に聞いて知ったこと「髪の毛は父親に似ている」という言葉を思い出し、
頭を丸める。
丸めた頭を胸にしっかりと抱きとめ、旅行に送り出す。サラは、また、みんなと歌を歌いだす。
内戦によって全てがぶち壊しになった、その痛みが伝わってきた。
先日観た「カルラのリスト」でもあったが、内戦の元凶者ともいえる
カラジッチとムラディッチがつかまらない。まだ戦後ではない。
そして、10年という月日が決して長いわけではない。
以前、同じ場所で、「林檎の樹」(1992年作成、1994年上映)を観て感じたことだが、
まだ、物語としては生々しく、表現しうる限界を感じながら、観るしかないと思った。
今回の映画も、結末らしい結末もない。
つまり、この映画の中で、旧ユーゴの行く末を知りうるものがいない、
という一つの表現になっている。
主人公エスマや、セラピストの元に集まる女性は深い傷を負っている。
それは、決して昔の話ではなく、今起きている、ということが痛ましい。
もしかしたら、内戦前の窮屈な社会でも、
おカネということで苦しむことのなかった社会に
戻りたい、という気持ちもあるのかもしれない。
この10年を思ったときに、かつて読んだ伊藤千尋の東欧ルポ(名著だった)の
タイトルを思い出す。
「歴史は急ぐ」
最初3分程度、遅れてしまった。
日本の映画タイトルと原題に若干の違いがある。
舞台は、ボスニア。ユーゴ内戦の後遺症が色濃く残りながらも、
人々は生活の糧を得るために、細々と生活を営む。
そして、その家庭環境ですら、内戦による幾多の傷跡が―
身体的にも・精神的にも深く刻まれている。
主人公エスマは、かつては医大生だったが、内戦の際、
強制収用と集団レイプによって、娘のサラを身ごもり・産んだ。
今では、裁縫の仕事で、糊口をしのいでいた。
ある転機が訪れる。
それは、娘サラの修学旅行に必要な旅費を用意しなければならなかった。
ナイトクラブでも仕事をはじめるが、その退廃ぶりにふさぎこむ日々を過ごす。
サラは、自分の生い立ちを知らず、また父親の存在を知らずして、思春期を迎える。
特有の親子の軋轢関係も交え、母親の新たな恋に、自分が捨てられることを恐れつつ、
重たい日々を過ごしていた。
やがて、自分の父親が、殉教者(シャヒード)ではなく、
レイプによって生まれたという事実を知る。
しつこく母親に聞いて知ったこと「髪の毛は父親に似ている」という言葉を思い出し、
頭を丸める。
丸めた頭を胸にしっかりと抱きとめ、旅行に送り出す。サラは、また、みんなと歌を歌いだす。
内戦によって全てがぶち壊しになった、その痛みが伝わってきた。
先日観た「カルラのリスト」でもあったが、内戦の元凶者ともいえる
カラジッチとムラディッチがつかまらない。まだ戦後ではない。
そして、10年という月日が決して長いわけではない。
以前、同じ場所で、「林檎の樹」(1992年作成、1994年上映)を観て感じたことだが、
まだ、物語としては生々しく、表現しうる限界を感じながら、観るしかないと思った。
今回の映画も、結末らしい結末もない。
つまり、この映画の中で、旧ユーゴの行く末を知りうるものがいない、
という一つの表現になっている。
主人公エスマや、セラピストの元に集まる女性は深い傷を負っている。
それは、決して昔の話ではなく、今起きている、ということが痛ましい。
もしかしたら、内戦前の窮屈な社会でも、
おカネということで苦しむことのなかった社会に
戻りたい、という気持ちもあるのかもしれない。
この10年を思ったときに、かつて読んだ伊藤千尋の東欧ルポ(名著だった)の
タイトルを思い出す。
「歴史は急ぐ」