花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景 (33)

ことばはどこからくるか ―ほとばしる激情を癒す手段はあるか―

ことばは、頭で考え・発しているようでいて、
実は発しているのは身体の各部位にあるのではないかと思う。
大雑把だが、頭・心・腹・生殖器(股間)・血にあるのでは、と考えている。
(例えば、「男のロマン」や「メルヘン」は股間から発していると思うし、
個人的な経験では、「血が騒いだ」こともあったが、その区分の仕方は、
ここでは細かく述べない)
人は、どういった経路でものを考え、行動してゆくのか。

最近の「理由なき殺人」というものを見るたびに暗澹たる想いをもつ。
もしかしたら、「理由なき」という「理由」なのかもしれない。
彼・彼女らは、どこから発した言葉を使って行動したのか。
「理由なき」という「理由」をどこから発した言葉で作り出したのか。

身近にいた存在が急に奪われる。その悲しみを想像できない。
そのほとばしる激情をテレビで見るたびに、人間の持つ言葉の「限界」を感じる。
いや、テレビだからこそ、都合の良い感情が出来上がってしまったり、
耐えられないときは、チャンネルを回せば良い、ということになる。

ただ、想像しない・放棄するというのも「理由なき」側に組み入れられることになるから、
せめて「おもいを馳せる」ことをしてみよう。
おもいを馳せること。それは、人間の全てで、それを感じることではないか。
それが、じつは「理由なき殺人」をなくす手立てにならないか。

私たちは、「ことば」があれば、何かわかりあえる手段はある。
しかし、「ことば」がなければ―それはつまり、想像だけで行動すること―、
理解はしあえない。
想像は無限なようでいて、限りなく「無」に近い。

ことばが空疎にならないよう、思いを馳せよう。

第三十一条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、
      又はその他の刑罰を科せられない。