花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景 (36)

昨日の善人は、明日の悪人となりえるか

新聞やTVで扱われる事件の中で、よく取り沙汰されるのが、
「え、あの人が」というシーンだ。
普段は、決してそんな素振りも無く…というコメントが、
事件の衝撃性を煽ったりする。

勿論、善人の仮面をかぶった悪人というのも、いるのだろう。
しかし、全てがすべて、そうとは限らない気もする。

冤罪事件はどうか。
状況証拠や自白の強要による、無理な事件解決が、数十年を経て見直されることもある。
人間は、ア・プリオリ(先験的)に物事を判断することもある。

ではその「先験」というのも間違いか、と言われると、そうでもないこともある。

一つ言えるとするならば、「善」と「悪」の二分化は決して起こりえないこと。
人間、徹底して悪人を自覚し、徹することなど、それこそ余程の人物でないと無理だろう。
その意味では、徹底した「悪人」であることに、賞賛や羨望の念をいだくことがあるのは、
人間の危うさでもある。また、自己の「正義」の暴走も、この「悪人」という範疇に
迷い込むことは歴史が物語っている。

是々非々とは取られたくはないが、つまりは、人間に中に介在する「善」と「悪」を
どう抱えて生きていけるか、というのが、個々の問題なのだと思う。
そういう意味では善・悪のバランスを兼ね備えることと、両方を抱えて生きてゆく
「覚悟」と「忍耐」を一人ひとりが持たねばならないのだろう。



第三十四条 何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、      抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ拘禁されず、要求があれば、
      その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。