花鳥風月記

流れる水に文字を書く

愚短想(74) 餃子の思い出

中国産の餃子の異物混入事件が、連日、マスコミに取り上げられている。
見ている人たちも正直、「食中毒」ならぬ食傷気味ではないだろうか。
思いつくままに、遺伝子組み換え大豆・BSE雪印牛乳・ミートホープ
不二家赤福船場吉兆など、枚挙にいとまがない。
また、耐震偽装・暖房・湯沸し・自動車など、
食品のみならず、生活の基本を支えるものまでも「信用崩壊」に至っている
そしてそれを扱う報道もある意味で定式化されている。
定式化は「記号化」につながり、その本来のイメージが収斂される危険性を持つ。

餃子についての個人的な思いでは、やはり、浪人生のころのアルバイトだろうか。
時給500円という、いまでは福建省の出稼ぎでも見向きもしない安い賃金で、
3時から9時まで働いた。ちなみにラーメンチェーンだったが、
料理ができたわけではなかった。
ただ、店が混んでない内に餃子を作る(この場合は皮に具を包むだけ)作業があり、
一日200個作っていた。これが英単語だったら…なんてことを思っていた。
なので、料理はしないが、餃子の包みならば、少しだけ自信がある。

先日の酒井俊ライブの前にも、テレビを見ていて
(ライブハウスにテレビがあるのもすごいが…)
NHKニュースでそのニュースは流れていた。
その時は、都道府県別に、中毒患者の人数が出ていた。
特徴的だったのは、栃木県がゼロだったこと。
さすが宇都宮餃子の本場であり、餃子消費量日本一、と思った。
ここに何となく「答え」が隠されているのではないか。

「衣・食・住」に対して、個人の思い入れのあるものには、概してぶれはないと思う。
今回の餃子は生協の製品も含まれているが、「生協が安全である」という
安直な図式もまた、思い入れが薄くなっていることの証左ではあるまいか。
現代は安易にモノが手に入りやすく、そのため、次第にモノを見る眼が弱くなっているかもしれない。
少々飛躍かもしれないが、メイド・イン・USAの価値観―消費者・利用者のことはどうでもいいから、
企業の利益を追求し、社員・構成員の幸福を追求する―が露骨に入ってきている今だからこそ、
賢い消費者にならなければならない。

今日の晩ごはんに餃子がでたが、「これは大丈夫」といっていた。
恐らく、今は、どの家庭もこれが合言葉になっているのだろう。