花鳥風月記

流れる水に文字を書く

愚短想(77) 作品・商品・製品

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川上未映子の本が、近所の本屋で平積みになっていた。
芥川賞を取る前は、『そら頭がでかいです…』を買うのすら、結構探したというのに。
やっぱり、賞を取ると、ここぞとばかりに増刷もされたんだろうなあ。
ただ、あの本の雰囲気からいうと、普通の本屋の平積みも少し異質かなあ。
そんなとき、「作品」が「商品」になった瞬間を感じる。
ビバ、資本主義。

で、最近CDショップを見る機会はないが、「未映子」のCDはやっぱり置きはじめて
いるのだろうか。
ネットでのサンプル音源を聴くかぎり、いいなあ、と思うが、辛口コメントも多い様子。
まあ、これは好みだから。

ふと思ったのは、「作品」を作り続けているミュージッシャンが、今までの活動実績が、
例えばシブがき隊の「スシ食いねえ」に及ばなかったとしたら、
「オレ(アタシ)の作品が『スシ食いねえ』に負けるなんて!」と、
創作意欲というのが枯渇してしまうのだろうか。
と思い、いろいろ調べてみたが、シングルの売上としては、11万枚と
意外に売れていない。けど、あのインパクトはそれを感じさせない。
でも「スシ食いねえ」はなんとなく「商品」というイメージが強い。

「作品」と「商品」を分かつもの。先日読んだ森村泰昌に言わせると、
「作品」の価値は、人間の価値と同様、値段にはおきかえられないもの(197ページ)
としている。勿論、生きるためには、その「作品」と「商品」の微妙な関係は
避けては通れない。

一方、受け手の自分達にとってはどうか。自分なりに付け加えるとしたら、
「作品」にはそれに対するイマジネーションや、感動などの思い出・記憶が
付随するのではないかと思う。

商品にも思い出はあるにしても、その「使用価値」であったりして、
イマジネーションや感動まではいかない。
たしかに「スシ食いねえ」については、昔、テレビ番組で袴姿で唄っていた
モッくんだかフッくんが、片方の裾に両足を突っ込んでしまい、
踊るたんびに、はいていない裾がプランプランしていたことを思い出す。
(これはもしかしたら「サムライニッポン」だったかもしれない)
これはまあ、「商品」としての記憶だろうなあ。感動ではないし。
ちなみに「スシ食いねえ」には英語バージョンがあるらしい。

最近の音楽は、「打ち込み」が多用されたり、
自分自身が、その曲の区別がつかないこともあり、
なんとなく「製品」というイメージが付きまとう。
品質はある程度保障されているが、どれも同じで、
受け手も同じような「効用(消費によって得られる満足)」を期待してしまう。
これはきっと作り手も同じような「効果」しか考えないからだろう。
ここには、イマジネーションや感動は、ない。

ということで、近いうちに「未映子」のCDは買ってみたい。
「作品」であり続けることを期待して。