花鳥風月記

流れる水に文字を書く

安楽寺えみ Snail Diary

イメージ 1

イメージ 2

表参道のラットホールにて。
今日初めて気づいたが、一応、展示スペースにRat hole(ねずみの穴)があった。

安楽寺えみの略歴を確認。武蔵野美術大学で油絵を学び、10年間の療養後、
93年より銅版画製作、98年から本格的な写真を始める。
現在、国際的にも注目を浴びている写真家の一人でもある、とのこと。
会場には、本人デザインのベルト・チョーカー・グラブ・ストッキングが販売されている。
どれも芸術的な観点を抜いても高い。

写真は、恐らく療養を通して、自己の存在と肉体を注視し、一つの原始的な活動としての
性衝動をアートとして昇華させている。
今回は自らを蝸牛としてみたて、その螺旋と突起(これはステッキ)を使い肉体との
融和・融合を写真に収めている。

表現自体は、危なっかしいところもある。子供連れの親はすぐに会場を後にした。
その肉体と対置する造形的な曲線は、自然と反自然の対置と受け取れる。

また、森村泰昌のポートレイト(この場合はアドルフ・ヒットラー)では、
男性器がある意味で、「支配」としての「道具」という存在におもえたが、
安楽寺のそれは、その部分も含みつつも、一つの「愛玩物」という側面も併せ持つ。

印象的なのは、彼女の写真集にある(6,000円もした!)小さな花びらのような、
また、カレイドスコープとして映り出される一つ一つがよくみると男性器であった。
万華鏡ならぬ、チ(以下自粛…)であり、その絵柄がストッキングに印刷されている。
「愛玩物」であるから、装飾する・着飾る。そういった冷ややかというか、
対置的に扱う視線が、エロティックでは想像し得ない、生への執着心を呼び起こす。

以下は、蛇足だが、書いておく。
安楽寺えみ―川上未映子―古くは伊藤比呂美といった、女性が生殖器から
発するメッセージの系譜のようなものを感じた。
ちなみに伊藤比呂美をあえて出したのが、自分自身が感じた「違和感」が
初めてそこにあったからだ。
中学生当時「鳩よ!」という詩の雑誌を講読していた際、
いつも伊藤比呂美の表現に「違和感」を持っていた。
(1983年創刊時の読者というのは、今考えると、ちょっと驚き。
当時はねじめ正一が駆け出しのころで「脳膜メンマ」という詩集?を
一生懸命売り込んでいた。中島みゆきの歌詞なども詩として掲載され、
それはそれで、大いに興味があったが、内容が乏しいというか、
編集スタイルがとんでもなく旋回したため、長くは読まなかった)

今はそうは思わない。やっぱ、成長したのかなあ…。