胡同(フートン)の理髪師
神保町岩波ホールにて。休日のせいか混んでいた。
オリンピックを機に更なる街の近代化を目指す中国で、
紫禁城近くの、日本で言う「長屋」で慎ましく生計を立てる
老理髪師チンさんの日常を追っている。
パンフレットを見て知ったのだが、この映画のモデルは、
主人公のチンさん、その人である。
日常は、日々の細やかなことが積み重なりながらも、
大河のように悠然と流れる。
理髪師として80年もの間、著名人や市井の人の後ろにまわり、
ひたすら働き続ける老理髪師に、清らかで凛とした風格が漂う。
対置的に、近代の中国(一面的には近代化・欧米化した)への
皮肉も込められている。
近代中国の映像で、象徴的なイメージ
「拆(取り壊し)」は、先日観た「長江哀歌」にもあった。
人が老いて死に、街が取り壊される。
迫り来る「変化」に老理髪師は、泰然自若としながらも、
時には「死に支度」を意識する。
それが、時に不器用で、観衆の笑いを誘う。
清貧で、一生懸命な生き方。
それは、誰もが落ち着ける生活習慣ではないだろうか。
変わりつつある近代中国社会に対して、
そう問いかけているような気がした。
オリンピックを機に更なる街の近代化を目指す中国で、
紫禁城近くの、日本で言う「長屋」で慎ましく生計を立てる
老理髪師チンさんの日常を追っている。
パンフレットを見て知ったのだが、この映画のモデルは、
主人公のチンさん、その人である。
日常は、日々の細やかなことが積み重なりながらも、
大河のように悠然と流れる。
理髪師として80年もの間、著名人や市井の人の後ろにまわり、
ひたすら働き続ける老理髪師に、清らかで凛とした風格が漂う。
対置的に、近代の中国(一面的には近代化・欧米化した)への
皮肉も込められている。
近代中国の映像で、象徴的なイメージ
「拆(取り壊し)」は、先日観た「長江哀歌」にもあった。
人が老いて死に、街が取り壊される。
迫り来る「変化」に老理髪師は、泰然自若としながらも、
時には「死に支度」を意識する。
それが、時に不器用で、観衆の笑いを誘う。
清貧で、一生懸命な生き方。
それは、誰もが落ち着ける生活習慣ではないだろうか。
変わりつつある近代中国社会に対して、
そう問いかけているような気がした。