花鳥風月記

流れる水に文字を書く

液晶絵画

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恵比寿の東京都写真美術館にて。

液晶の歴史については、6年前にこんな文章を書いたことがある。
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液晶の歴史は、発見は早いのですが、皆さんの手元に至るまでに長い時間を要しました。
液晶とは、イカの墨や石鹸水など、固体と物体の中間にある物質の状態を表し、1888年
オーストリアの植物学者ライニツァーによって発見されました。
液晶に電気的な刺激を与えることで、光の通し方が変わるのを発見されたのが1963年、
その5年後に、液晶ディスプレイが作られました。
製品化にはさらに時間がかかり、シャープではじめて電卓として利用されたのは1973年
のことでした。
さまざまな改良が加わり、現在では、パソコン・携帯電話などで、
多く使われていますが、もともとの発見は植物学者、というのも、面白いですね。
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そして現在、その画質は、美術にも耐えうる時代になった、
ということで行われた。

ビデオアートとは少し違うのかもしれない。
絵画は勿論「静(止)画」であるが、ビデオアートは「動画」である。
今までは、その「動く」ことに対する解釈に右往左往があったような気がする。
それは、アニメーションも含め、技法が絶えず進化することにより、
表現の「古さ」がその作品の価値を下げてしまうことにもつながるからだ。

また、個々の解釈が共通の認識と至らないがために、
えてして「ひとりよがり」という先入観を持たれる事も否めない。
今回の展示も、それぞれがバラバラな解釈で表現していることもあって、
その混沌が伺えたことが、ある意味収穫となった。

認識が定まらないという意味では、森村泰昌のアプローチは、
共通認識である「世界の美術」を共通の土台として、独自の表現をしている。
今回はフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」をモチーフとして
振り返る動画を作っている。

ただ、会場レイアウトで思ったが、ちょっと企業の影が出すぎか。
そういう目のつけどころはシャープではない。

絵画における絵筆の軌跡。
液晶を含めた映像・画像における粒子(ドット)。
今まではその境界がある程度ハッキリしていて、
その粒子の粗さを活かした表現方法もあったが、
今回は恐らく、映像における色彩・陰彩・光彩が限りなく絵画に近づき、
そして凌駕するひとつの宣言なのではないか、とも思った。

絵画は色褪せや劣化は不可避だが、
いわゆる映像作品はデジタルであれば
永遠の複製が可能となる。

しかし人間はどちらを好むか。
今はまだ絵画かもしれないが、
この先「液晶絵画」という分野が確立されれば、
分からない。

また、アニメのイラストレーションも今後「芸術」となる時代がくるとしたら、
今までの知識や意識や感覚は大きく変わるのかもしれない。