レイナルド・ピネーダのこと
チリのフォルクローレ歌手のレイネルド・ピネーダを知ったのは1993年。
毎月のペースで、20人も来れば満杯になった渋谷のアピアという小さいライブハウス
(今はどうやら倍の広さになったらしい)へ、仕事帰りに駆けつけた。
当時はギター教室の講師や路上でも歌い、また私的な応援団もあって、
終わったあとは、フォルクローレなのになぜかインド料理にいくなど、
楽しい打ち上げなどありました。
とくにクラシック・ギターやピアノなどの編成で、わりとアコースティックな
ところも良く、また、彼の歌声も男ボーカルで普段日本では聞くことのない、
ラテン特有の甘いものでありました。
一時期、「上を向いて歩こう」を爆風スランプと一緒に作り、少し売れるきっかけも
あったようですが、ビザの関係で、チリに戻らねばならず、その後、
音信が途絶えてしまいました。
今、手元には、当時手売りしていたカセットテープのさらにダビングしたものしかなく、
それすら、どこにいってしまったか分からなくなってしまいましたが、「月に恋する人」や
「我がラテンアメリカの花― Mi Latino Americana Flor」は今でも記憶に残っています。
ネット検索で、後者は、リミックスされたものがCDで発売されているそうなので、
今度探してみようと思う。レイナルド・ピネーダの情報、乞う。
毎月のペースで、20人も来れば満杯になった渋谷のアピアという小さいライブハウス
(今はどうやら倍の広さになったらしい)へ、仕事帰りに駆けつけた。
当時はギター教室の講師や路上でも歌い、また私的な応援団もあって、
終わったあとは、フォルクローレなのになぜかインド料理にいくなど、
楽しい打ち上げなどありました。
とくにクラシック・ギターやピアノなどの編成で、わりとアコースティックな
ところも良く、また、彼の歌声も男ボーカルで普段日本では聞くことのない、
ラテン特有の甘いものでありました。
一時期、「上を向いて歩こう」を爆風スランプと一緒に作り、少し売れるきっかけも
あったようですが、ビザの関係で、チリに戻らねばならず、その後、
音信が途絶えてしまいました。
今、手元には、当時手売りしていたカセットテープのさらにダビングしたものしかなく、
それすら、どこにいってしまったか分からなくなってしまいましたが、「月に恋する人」や
「我がラテンアメリカの花― Mi Latino Americana Flor」は今でも記憶に残っています。
ネット検索で、後者は、リミックスされたものがCDで発売されているそうなので、
今度探してみようと思う。レイナルド・ピネーダの情報、乞う。