花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景 (71)

栴檀は双葉より芳し?

テレビを見ていて、いつもながら思うことは、
旅や料理番組等で、匂いや味を感じることができない。
ごく当然なことであるものの、考えてみれば、
匂いや味のないものを良く好んで観るなあ、と我ながら感心する。

これは雑誌やネット・会話という「情報」であれば、同じ。

最近では、訳の分からない味覚に対するコメントで
ウケを狙っているふしすらある。

「プティングの味のよしあしの証明は食うことにある」
       エンゲルス『空想から科学へ』英語版への序文1892年

言いえて妙である。

勿論、人間には「想像力」というものがあり、
必ずしも一致しないものの、近似値を知覚する努力はできる。

美味しいもの、というものも解釈は多岐に渡る。
お腹が空いているとき・店を替えて食べ比べてみる等、
食欲と味覚の関係は案外複雑かもしれない。

そこに「飽和・飽食」というキーワードを据えてみる。
人間は、満たされている状況が続けば、感覚が鈍化する。
大量生産・大量消費のなかで、本当に味わえる「味覚」を
奪われているのも、また事実でもある。

「味覚」同様、その味を表現し、想像力を逞しくする「言葉」も奪われている。
物事を大げさに表現することは、実は短絡的な思考で伝える効果的な手段になる。

そして「時間」という軸を置いてみる。
最近では、ようやく「スロー・フード」という言葉も出てきたが、
圧倒的な産業構造のなかで、食事の時間、
いうなれば「味覚とのコミュニケーション」が奪われている。

今、時間をかけて、「言葉」を聞き、「感じる」ということを
疎むような時代になっているような気がする。
人間の原始的な欲求としての「食べる」ということがそうなのだから、
ましてや、政治家云々、ということは、想像に余りある。

選べない・選ばない・選びたくない。
「じゃあ、いつものでいいや」
二世議員が増えるわけだ。
今度は何を「ぶっこわす」?


第七十二条 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、
      一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに
      行政各部を指揮監督する。