花鳥風月記

流れる水に文字を書く

辺見庸 『愛と痛み』

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死刑制度について講演したものを加筆補正して刊行。
萱野稔人あたりが、一昨年から論じ、注目されている国家論
いわゆる国家という「暴力装置」による「合法的」な殺人について
断固として反対の立場をとりながら、深く日本人の深層心理まで論を進めてゆく。

読んでいる印象は、喉元に匕首(あいくち)を突きつけられたような
峻厳さを含み、且つ人が持ちうる不完全さを慈しむ「愛」という存在について
自己の病歴などから得た経験をもとに語っている。

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私の痛み。他の痛み。何人も他の痛みを痛むことはできません。しかしながら痛みの孤
独をみとめただけで終わるのではあまりにもさみしい。痛みを共有することができないと
いう絶望的なほどの孤独をかかえて私たちの生はある。ならば、その孤独にうちのめされ
ながらも、なお他の痛みを共有しようとする不可能性にこそ私は愛の射程を見いだすので
す。私の痛みから他の痛みに橋を渡し、他の痛みから私の痛みにかえってくるもの。それ
は主体的な徒労、あらかじめ不可能な結果をはらんだ主体的な無駄ともいえるかもしれま
せん。けれどもその主体的な徒労こそが愛なのではないかと私は思うようになった。架橋
した痛みのなかで互いの孤独を承認するということもまた深い愛ではないか。考えるとい
うことの最前線はここにあるのではないでしょうか。
(本書22~25ページ)
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この部分を喫茶店で読んだ時、はからずも目の奥が熱くなった。

死刑制度が世界的にも廃止の方向に向う今、なぜ日本では問題化されないのか。
それを「世間」という日本独自の空間に焦点を当てる。
先日読んだ加藤周一の「今=ここ」の考え方にも通底する。

おかしいことを「おかしい!」という。
やめなければいけないことを「やめて!」という。
人としてごく当たり前のことが言えなくなっている現代は、
かつてないほどの閉塞感が生じているのではないか。
辺見庸は、満身創痍の身体に鞭打って、声をふりしぼり、語る。