花鳥風月記

流れる水に文字を書く

BABEL

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舞浜イクスピアリで「BABEL」を観る。狙い通り、空いていた。
ロッコアメリカ・メキシコ・日本をつないだ、スケールの大きいドラマの展開。
それでいて、歯車がバラバラになったきっかけは、メキシコ人乳母のアメリアの言葉を借りるのなら、
「悪いこと」ではなく「愚かなこと」から始まる。
ロッコの羊飼いの少年の興味本位で撃ったライフルの銃弾が、アメリカ人観光客にあたり、
不自由な状況下でひたすら救援を待ち、言葉の通じない、というよりは、
外交問題まで話が大きくなり、自分たちの意思が通じないことに苛立ちが募る。
一方、アメリカで両親の帰りを待つ子ども達は、乳母の息子の結婚式に連れられメキシコに渡る。
甥っ子の車での帰路に着く際、国境警備隊にとがめられ、逃走という過ちを犯すことになる。
子ども2人と乳母が、大平原(殆ど沙漠)に捨てられ、当て所ない助けを求める。
東京では、聾唖の高校生が、言葉が通じない、ということ以上に、自分を「お化け」と
見る同年代に嫌悪感と悲しみを覚えている。
「BABEL」の元の趣意は、「言葉の通じない世界」ということだが、それ以上に
様々な隠然とした「力」が更に家族を引き裂いて行く。そして、3つの家族に共通しているのは、
家族の喪失であり、そこから新しい「絆」を求めてゆく方向がうっすらと見えてくる。
様々なシーンの構築から言えば、「あれはどうなったのか」「あの後どういう展開なのか」といった
不安・不満は出るかもしれないが、全てを応えるのは愚というもので、その点、軽妙な取捨選択が生き、
主人公プラット・ピットがようやく妻が搬送された病院から子どもたちに電話したシーンで、
物語は不思議な輪廻に包まれる。そこが鮮やかであったと思う。
また、モロッコ・メキシコのシーンが砂埃と風が映像に強弱を与えているのと対照的に
東京の風景は人工的で、無機質な印象であったのが印象的だった。
これは、東京での人間関係でも役所公司のラストの「こっちにも何かひっかかるんですかね」
といった言葉に集約される。
但し、最後に娘を抱き寄せるシーンは、モロッコ・メキシコに共通していたような
肉親への愛情が表現され、バラバラになった破片をつなぎとめるものは何かを
示唆するメッセージとなった。

余談だが、エンドロールでバレーボール指導で「ヨウコ・ゼッターランド」の名前があったのが驚いた。