花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景 (81)

「なんで」の勇気

小さい頃、「なんで」を何回か続けると、大人にたしなめられた。
たしかに、「なんで」を3回以上言うと、大抵は、回答に窮する。

当たり前のことを「なんで」ということが、おこがましい、というか
幼い、という刷り込みがどうやら根付いているようだ。
「なんで」という思いをブラックボックスに投げ込んで、
よくわからないまま、思考停止の「布」をかぶせてしまう。

ほんとうにそれでいいのか、と思うこともある。
「物分りの良い」ということは、時として、
「利用されやすい」と同義であることがある。
無論、そこには何らかの「報酬・見返り」があるからで、
ある意味自己保身でもある。

しかし、その「約束・盟約」が崩れた時、人はどうなるか。
哀しいかな、刷り込まれた習性は、なかなか直すことができない。
力なく、空にむかって、声とこぶしを突き上げるしかないのかもしれない。

そんな盟約の崩壊を目の当たりにしている。
今、この時期にどうするか、ということは勿論大事だが、
本来もっと気づくべきことは、そのなりたちに
目を向けるべきことではないだろうか。

「物分りの良い」大人に育てる前に、
なんでも責任を持って答える・応える大人が必要なのだろう。
分からない・答えられないことがあってもいいではないか。
少なくとも、その姿が、あるべき「大人の姿」を映し出すはずだ。

かつて伊藤千尋さんに聞いた話がある。
南米コスタリカでは、一人の大学生が、大統領を訴えて勝訴した。
2003年のイラク戦争の際、ブッシュ政権を支持する内容を表明し、
ホワイトハウスのホームページに、同盟国として、コスタリカ
名前が載り、それが、平和憲法を持つ国では憲法違反ではないか、
という訴えを起こし、2004年に勝利し、ホームページから、国名を
削除させた。

コスタリカでは、小学生ですら、紙切れ1枚、電話1本で
裁判を起こすことができる。
それを違憲かどうかを国が調べてくれる。それが仕事だという。

こんな話を書くと、「そんなことをしたら、裁判が乱発されて大変ではないか」
という不安を持つ人もいるだろう。
その不安が、問題点なのだと思う。
何かを縛り・抑えつける役割として期待・信じているのが
憲法=法律という発想が正しいのだろうか。
個々が権利を守るために、時に権力の暴走に歯止めをかけるのが
憲法の本来の姿ではないのか。

それを守るためには、「なんで」を
恐れず問い・答える社会が必要ではないかと思う。
思っていることを外套(コート)の中に隠さず、
胸襟を開いてゆこう。

コスタリカでは、小学校から人権教育が始まる。
入学してまず教えられるのは「人はだれも愛される権利がある」
ということだそうだ。


第八十二条 裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。
    2 裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する
      虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。
      但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する
      国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、
      常にこれを公開しなければならない。