花鳥風月記

流れる水に文字を書く

伊藤千尋トークショー奇聞総解2009年9月20日@狛江 森の泉会館

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前日、23時半の帰宅時に、常連のIさんより電話があったとのことで、
かけ直してみると、明日あるよ、とのこと。
パソコンのデータが壊れ、ハガキが送れなかったとのこと。

昨年の1月以来。今回は、15日に伊藤さんの定年退職となった記念、ということで、
お祝いを持って駆けつけた。
今回のお題は「記者生活35年」
以下、備忘録がわりにメモを残す。

伊藤さんのスタートは長崎支局。
思っていた仕事と違い、かつ上司とそりが合わず、3日で辞めたくなった、とのこと。
実際、その年の夏休みには上京して、職探しをした、とのこと。
当時はオイルショックで転職先も見つからず、そのまま辞めるのも、
と思いなおし、3ヶ月、3年、と仕事を続ける。

やがて、長崎の被爆者の取材に行き、話を聞こうとも、
相手は2時間経っても、一向に話をしようとしない。
その時はその理由は分からなかったが、後年、ベトナムを取材した時に
その理由が分かった、とのこと。
ベトナムでは、「ソンミ村虐殺事件」の生き証人が、
その凄惨な経験を話し、聞いている伊藤さん自身が胸を締め付けられる思いがした。
「なぜ、そこまで話せるのか」という問いに、その証言者は
「本当なら話したくない。当時のこと、家族や周りの人が無残に殺されたことを思いだし、
夜も眠れない。しかし、私は伝えなければならない。身体を張って話している」
とのことだった。それを聞いた伊藤さんは「あなたの話を決して無駄にはしません」と
応えたそうだ。
その時、長崎での一件を思い出し、語るということは当然、その時の記憶が蘇り、
とても苦しいことなのだとわかる。「話すのが当たり前」と思っていた自分を恥じた。

やがて筑豊支局に赴任し、そこでは記録文学者の上野英信氏の家に足繁く通い、
ジャーナリズムについて、同業・同志で論を重ねた。
やがて西部本社に上がり、タブーといわれた問題にも積極的に取材をしていく。
そしてスペイン語会話ができることをきっかけに東京本社の外報部に抜擢される。
当時の外報部の担当チームには船橋洋一(現・主筆)と伊藤正孝という錚々たる面々がいた。

中南米支局に配属される時、語学は決して堪能ではなかった。
むしろ、成田を発つ時、中学で習う英単語も覚束ない事態に
飛行機のなかではまんじりともしなかった。
やがて夜を明かした機上の窓には、五大湖が煌(きらめ)き、
その時「アメリカが俺を受け入れてくれている」と感じた、とのこと。
NYで、赴任の挨拶を済ませ、立ち寄った近代美術館で、
なにげなく覗いたアンセル・アダムスの写真に感銘を受ける。
「写真の詩人」―ならば自分は「新聞記者の詩人」になろうと決意する。

赴任先では、経験豊富、または語学堪能の同業他社がいる。
対抗しうる手段として、徹底した現場主義をとる。
内戦の激しい中南米諸国を取材して、乗った飛行機は400回を越える。
大砲のそばに佇む12歳の少年兵と話し、将来の夢を聞いてみる。
「海洋生物学者になりたい」その言葉が今も心に残る。

やがて、「AERA」の編集メンバーとなり、東欧革命の現場を取材する。
まさにリアルタイムの状況下、日本大使館も米国大使館も米国海兵隊も退去する
そんな危険な状況下の中でも、取材を選ぶ。
勿論、身体が震えた。しかし、ボランティアで助手をしてくれた
ルーマニアの予備校生の「武士道!」「葉隠れ!」の言葉に奮起して
銃撃の中を取材する。

そしてバルセロナ支局長、日本に戻って川崎支局長(ちょうどこの頃から奇聞総解開始)、
現場から一旦離れる。
そのとき「本業ジャーナリスト、副業会社員」を意識する。
今まで見たこと・聞いたことの殆どが新聞記事には出てこない。
話した相手は、きっと誰かに・世界に発信してくれていると信じている。
だからこそ、新聞に書けなかったことを雑誌や書籍にし、講演をする。

やがて、ロサンゼルス支局長になり、赴任してすぐに「9.11」が起きる。

中南米の話で時間が超過し、あとの話が短くなってしまった。
きっと6時間は必要だろう。それでも2時間半。しかし時間が長くは感じなかった。
それだけ話に引き込まれるものがある。近著を購入し、サインを頂く。
今後、1年間は嘱託で、beの「歌の旅人」の記事を書くそうだ。