花鳥風月記

流れる水に文字を書く

愚短想(207) ジョー樋口の思い出

先日、ジョー樋口が亡くなった。81歳。
全日本プロレスの「不動のレフェリー」という記憶が強い。
小学生・中学生のころ、プロレスが丁度、人気が高い時期で、
土曜日夕方に、日本テレビで行われるジャイアント馬場全日本プロレス
金曜日の夜に、テレビ朝日で行われるアントニオ猪木新日本プロレスは、
欠かせないテレビ番組だった。

ラッシャー木村国際プロレスは確かテレビ東京だったか。
あまり見たことがなく、むしろ、テレビ東京は、10時前くらいだろうか、
5分程度の番組「勝ち抜き腕相撲」を見ていた。
確か、あの時のレフェリーは、「チャーリー湯谷」だった。

当時は、さほど、全日本と新日本の違いはなかった。
主に全日本でレフェリーをしていたジョー樋口は、
禿頭で、水色の服を着てリング内を駆け回っていた。
お約束の「気付かない反則」「器用な失神」は、
プロレスを盛り上げる上では、欠かせなかった。
力道山の時代には、沖識名というレフェリーが有名だが、世代的に、記憶に薄い。

やはり、レフェリーといえば、ジョー樋口だった。
中には、レフェリーの取るカウントで、贔屓がある・なしを
気にする人もいるが、個人的な記憶では、
ジョー樋口は、公平なカウントを取っていた。
もっとも、3カウントにいたる、
カウント2.7とか、2.9とか2.99といった
これまたお約束事の「永遠に遠い3カウント」ではあったが…。

しかし、一度だけ、ジョー樋口のカウントで印象深いのは、
NWAヘビー級選手権(タイトルマッチ)の時、
ハリー・レイスに、ジャイアント馬場が「速攻」を仕掛け、
32文ロケットや、ランニング・ネックブリーカーなど、大技を繰り出し、
手が震えながら、倒れ込むように、3カウントを取った。
長年、待ち望んだ世界タイトル。
それを馬場のみならず、ジョー樋口も万感の思いで、
キャンバスを叩いたのだろうなあ、と思った。

タイトル自体は、数日後のリターンマッチで、馬場が負け、
再びアメリカに帰って行ってしまったが…。

きっと、あっちでもレフェリーをやっているんだろうなあ…。
ご冥福をお祈りします。合掌。