花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景・再び (31)

手続き


「手続き」という言葉をじっと見る。
元は「手」が手段や方法を表し、その流れ、ということかもしれない。
しかし、じっと考えるそのイメージの突端には、
人と人が手をつなぐ、結び合うという姿がある。

人は、いつのころからか、手と手、顔と顔、目と目が向き合うことがなくなってきた。
それは、「文書」が出来上がった昔にも遡ることができる。
但し、それらは、時空を超えた、一つの「手続き」への嚆矢でもあった。

そこには、その時代の熱や咆哮といったものが詰め込まれているものもある。
勿論、かつてロゼッタ・ストーンだか、古代の文書を解読した際に現れた文面には、
「最近の若いもんは…」という現代とそう変わらない、年長者のぼやきもあるようだ。
それはそれで、自分たちの時代にも通底する、ある種の「つながり」を感じる。

いつのころか、人は、顔を伏せたまま、モノをいう時代になった。
勿論、わが身の危険を回避する時代もあったが、
最近は、どちらかというと、あまり良い意味ではない「保身」に
執着しているように思える。

特に、0と1の世界におけるそれは、深刻にも思える。
匿名性がもつ、速報性や、深刻さを否定はしないが、
それにしても、人間の原始的な欲望が暴走しているような気がする。
かつては「読み聞かせ」をしていた子供の世代に、
いきなり情報の匕首が喉元に迫ってしまう危険性も孕んでいる。

そんな時代だからこそ、ものの道理は、
叩いてでもいいから、しっかりと向き合って伝えるべきではなかろうか。
近年、悪さする子どもを叩いて叱るオヤジが減っているような気がする。
しかし、その痛み(叩く方も、実は痛いものだと)を「分かち合う」ことも
今の時代、必要ではなかろうか。


第三十一条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは
      自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。