サラエボ、希望の街角
岩波ホールにて。
ヤスミラ・ジュバニッチ監督作品は、
前作「サラエボの花」を観たこともあり、関心が高かった。
今回は、前作よりも、時間が経過したサラエボを描いている。
つまりそれは、同時性というか共時性というか、「現在」を
描写しているに他ならない。ドラマであり、「ドキュメンタリー」である。
航空関係の会社に勤めるルナとアマルは、
同棲をし、子供を授かることを夢見て、不妊治療にも通う。
やがて、アルコール依存でもあるアマルが、
飲酒をしながら管制塔で仕事することを咎められ、解雇される。
川下りをして気分転換しにいったとき、内戦時の戦友バフリヤと遭遇する。
失業していたアマルは、彼の誘いを受け、仕事をするが、
やがて、イスラム原理主義に帰依してしまう。
アルコールと精神が浄化されていることに喜びを感じるアマルとは逆に、
ルナは彼の姿を、現実逃避とも見えなくもなかったが、理解しようとも勤めた。
しかし、それは、彼女がたどってきた過去―内戦によって両親を家の前で殺害され、
そして奪われた過去との対峙を意味していた。
意を決し、元の家に行くと、子供たちが遊びに興じている。
その姿を慈しみながらも、涙にくれるルナを見て、
その家の子供が理由を尋ねる。
あふれ出る様々な思い。
しかしそれをそのあどけない表情の子供にはぶつけず、
すべて飲み込んで、その場を去る。
やがて、求めていた子供は授かりながらも、
人間が変わってしまったアマルとは別れて、
ひとりで生きていくことを選ぶ。
主人公ルナは、吹石一恵に似ていた。
洋の東西を問わず、凛として生きる姿を体現するイメージなのだろう。
内戦後、という復興のスピードは、日本にいる自分たちの想像を超える
ものではないかと感じた。
何もかも壊され、奪われてから、今では客室乗務員として仕事をこなし、
携帯電話をかざしている。主人公ルナにとってのそれは、
自分と外をつなげるメガネのような、そしてそのメガネには、
反実仮想のような想いや願いも潜んでいるように思えた。
携帯電話のこういった表現は、「悪人」にも通底するように思えた。
また、アパートの一角には、「命」と書かれた色紙が2枚飾られていた。
どういったことを意味しているかは、様々な解釈もあろうが、
少なくとも、世界の文化―それに限らず情報やいろいろなことが、
奔流となって、「復興」という名でなだれ込んでいるのではないだろうか。
その御(ぎょ)しきれない流れの中で、ひたすらあがいているのが、
彼ら、サラエボの若者ではないだろうか。
アマルのアルコール依存・イスラム原理主義への傾倒も、
ルナの二者択一に迫られる人生そのものも、
内戦があってのことであるだろう。
前作同様、この映画にも、内戦後、という傷痕を抱えつつも生きる姿が、
力強く描写されているように思われた。
特に印象的だったのが、元の家でのシーン。
小さな子に、まだ生々しい記憶をどう伝えるべきか。
「歴史を飲み込む」という彼女の行動は、
同時代性がないと分からないことなのだろうが、
疼痛のようにこちらに伝わってきた。
ヤスミラ・ジュバニッチ監督作品は、
前作「サラエボの花」を観たこともあり、関心が高かった。
今回は、前作よりも、時間が経過したサラエボを描いている。
つまりそれは、同時性というか共時性というか、「現在」を
描写しているに他ならない。ドラマであり、「ドキュメンタリー」である。
航空関係の会社に勤めるルナとアマルは、
同棲をし、子供を授かることを夢見て、不妊治療にも通う。
やがて、アルコール依存でもあるアマルが、
飲酒をしながら管制塔で仕事することを咎められ、解雇される。
川下りをして気分転換しにいったとき、内戦時の戦友バフリヤと遭遇する。
失業していたアマルは、彼の誘いを受け、仕事をするが、
やがて、イスラム原理主義に帰依してしまう。
アルコールと精神が浄化されていることに喜びを感じるアマルとは逆に、
ルナは彼の姿を、現実逃避とも見えなくもなかったが、理解しようとも勤めた。
しかし、それは、彼女がたどってきた過去―内戦によって両親を家の前で殺害され、
そして奪われた過去との対峙を意味していた。
意を決し、元の家に行くと、子供たちが遊びに興じている。
その姿を慈しみながらも、涙にくれるルナを見て、
その家の子供が理由を尋ねる。
あふれ出る様々な思い。
しかしそれをそのあどけない表情の子供にはぶつけず、
すべて飲み込んで、その場を去る。
やがて、求めていた子供は授かりながらも、
人間が変わってしまったアマルとは別れて、
ひとりで生きていくことを選ぶ。
主人公ルナは、吹石一恵に似ていた。
洋の東西を問わず、凛として生きる姿を体現するイメージなのだろう。
内戦後、という復興のスピードは、日本にいる自分たちの想像を超える
ものではないかと感じた。
何もかも壊され、奪われてから、今では客室乗務員として仕事をこなし、
携帯電話をかざしている。主人公ルナにとってのそれは、
自分と外をつなげるメガネのような、そしてそのメガネには、
反実仮想のような想いや願いも潜んでいるように思えた。
携帯電話のこういった表現は、「悪人」にも通底するように思えた。
また、アパートの一角には、「命」と書かれた色紙が2枚飾られていた。
どういったことを意味しているかは、様々な解釈もあろうが、
少なくとも、世界の文化―それに限らず情報やいろいろなことが、
奔流となって、「復興」という名でなだれ込んでいるのではないだろうか。
その御(ぎょ)しきれない流れの中で、ひたすらあがいているのが、
彼ら、サラエボの若者ではないだろうか。
アマルのアルコール依存・イスラム原理主義への傾倒も、
ルナの二者択一に迫られる人生そのものも、
内戦があってのことであるだろう。
前作同様、この映画にも、内戦後、という傷痕を抱えつつも生きる姿が、
力強く描写されているように思われた。
特に印象的だったのが、元の家でのシーン。
小さな子に、まだ生々しい記憶をどう伝えるべきか。
「歴史を飲み込む」という彼女の行動は、
同時代性がないと分からないことなのだろうが、
疼痛のようにこちらに伝わってきた。