花鳥風月記

流れる水に文字を書く

弱虫でいる勇気

例えば、目の前にある危機にどう対処するか。
福島で起きた原発事故に際し、東京電力の社員は、
そういった気持ちのせめぎあいに懊悩しているのではなかろうか。

ある意味、今日(こんにち)の責任をすべて背負い込まねばならないことや、
安全が保障されず、むしろ明らかな危険を目の前に、驚愕しつつも、
そんな感情を持つ余裕すらなく、ひたすら修復の作業に埋没している人もいるだろう。

そして、敵前逃亡ならぬ「現場放棄」もきっといるのだろう。
善と悪、そして是と非が、これほどまでに色濃く違うのは
まさに「命」の重さに四肢や皮膚の感覚が痺れていることにほかならない。

国民のために、身を犠牲にする精神は尊い
彼らの決死ともいえる献身的な努力のもと、事態は収束するのかもしれない。
あるいは、偉い人や強い人が叱咤激励というか「使役」という
権力装置をつかって、やむなく従事する人もいるだろう。

崇高な理念や意識を持つことのない私(たち)にとって、
何が判断の材料足りうるか。
ひとつは、やはりリーダーの振る舞いによるものではなかろうか。

「東電マンとしての誇りを持って取り組んでほしい」
帰属意識やプライドに訴えているときは、大抵は経営者がヤケクソになっている。
そんな時は、経営者(リーダー)をよく見て欲しい。
もし、そのリーダーに「おまえが行けよ!」という気持ちがくすぶるならば、
勇気を持って弱虫になるのも、一つの選択肢なのかもしれない。

生涯にわたって、卑怯者の誹(そし)りや、罪悪感に塗(まみ)れるかもしれないが、
あなたに守るべきもの、愛すべきものがあるとするならば、
それを選べるのは、権力・権威を持つ人たちだけではないからである。

こんな時こそ、「選ぶ」「合わす」の尺度でいうならば、「選んで」ほしい。
それは自分の価値観によらない「合わす」ことによって、不合理かつ不条理な
結果を強いられたとき、死しても後悔するのではないかと思う。

そしてもし、あなたがそれでも、現場で戦うことを「選ぶ」のなら
それはとても崇高なことだと思う。
私には、ひたすら尊敬することしかできない。


情報も何も見えない廃墟の中で、働く方々に思いをはせて。