花鳥風月記

流れる水に文字を書く

愚短想(228) 高校時代のO先生の記憶

先日、高校の同窓会報が届いた。
同窓会というものに縁がなく、年に数回届く報せで、
お世話になった先生の消息を知るくらい。
自分が卒業何回生というのも良く分かっていない。

今回の記事で訃報があった。
そのお二人の名前が、記憶にあった。
実名はここでは遠慮し、イニシャルで、と思ったが、
お二人ともO先生だった。(記憶違いはご容赦願いたい)

まず、化学のO先生は、自らもOBであり、
深く母校を愛していらっしゃった。
同窓会報にも積極的に携わっていた様子。

直接授業を受けたことはなかったが、
いわば校長よりも「主(ぬし)」のような感じだった。
都立高でいち早く52台ものパソコンを取り入れたことでも話題となった。
確かにそのパソコンを触ったことが数回(1回?)あったが、
思い起こせば、それはNECの88シリーズのローコストモデルの
パピコン」と呼ばれたものだったように思われる。

あれから四半世紀はゆうに経つ。
何台かのパソコンを使い、今はNECのバリュースターを使っていることに
何らかの縁を感じるのは強引だろうか。

なかなか面白そうな先生だったが、ひとつだけ思い出がある。
(記憶違いかもしれないが…)
確か演劇部の顧問をされていて、何かのきっかけで倒れられたことがあった。
もともと心臓に持病があったとの話をきいたが、
それは伏せておいてほしい、ということを間接的に知ったことがある。
教師としてのある種の矜恃があったのかもしれない。

もう一人のO先生は数学。
高校2年生の時、「代数幾何」を教わった。
確か同窓会報にあった(これも記憶違いがあるかもしれない)が、
確か父親が特高警察で、厳格な環境で育ったこと、
若いころは「蹴りのO」と称し、生徒に遠慮なくやっていたとか。

自分が教わった頃は、50歳を超えていたと思う。
また、病で視力が極端に落ち、メガネを重ねて使っているのが
印象的だった。

風体からいって、どっかの組の人?とも思えたが、
人情にあつい、というか昔かたぎな印象は強く持った。
確か阪神日本シリーズをラジオで聴いていいた生徒に
叱りもせず、試合状況を一緒に確認しながら授業をやっていたのが
良い思い出になっている。1985年のこと。

自分が通っていたころの都立高は、どうやら変革期だったようで、
在職年数の長い先生が頻繁に人事異動の対象になったようだ。
各校の「名物先生」がその憂き目にあったらしい。
生徒よりも強い「愛校心」を持っている先生が多かったのが、
母校の特色にも思えたが、来たるべき「管理教育」の暗雲が
立ち込めた時期なのだろう。

化学のO先生は、在職年数の残りがわずか、ということで残り、
数年下の数学のO先生は異動となった。
無念な気持ちを漂わせた先生に何かできないか、という話になり、
クラスで「感謝状」を作り、最後の授業で学級委員が読み上げ、進呈した。
O先生は、感動して「ありがとう」ということばと「悪いようにはしない」と
話していた。

この「悪いようにはしない」という言葉に何人も救われた。
自分も学年末試験代数幾何の点数は30点だった。
「困ったね!」という達筆かつ、大きな字がうら寂しい答案用紙に踊っていた。
しかし、赤点にならずに済んだ。

O先生、離任式の時にも、その感謝状を読み上げていた。
そして「ありがとう」のひとこと。
それが、自分が覚えている最後の姿だった。