マウリッツハイス美術館展
上野の東京都美術館にて。
今年最も行きたいと思っていた美術展だったので、
気合を入れて、午前中には家を出る。
平日というのに、館内は入れたが入場まで20分待ち。
マウリッツハイスとは「マウリッツ邸」という意味で、
個人宅が美術館となっている。
小さいながらも、その展示の素晴らしさは有名であり、
今回は、改装と増築工事のため、その作品群が日本に来た。
風景画の低い水平線と面積を大きくとった空。
空の色はどんよりと曇っているものが多く、
そこを滑空する鳥の小さな影が、絵に動きを呼び込んでいる。
一つ一つの絵が、じっくりと観るに値する。
展示数は少ないながら、見どころ満載。
とりわけ、フェルメール作品の2作は必見。
「ダイアナとニンフたち」は、他と比べると大きい作品。
柔らかな光が、ダイアナのしなやかな身体を照らしている。
そして、「真珠の耳飾りの少女」
ここにきて、まさか中でも順番待ちをするとは思わなかった。
そして近づくと、九州で観た「阿修羅展」のような横暴な案内。
「観衆の背中越しに観る人」「最前列で観る人」「二列目で観る人」と強制的に分けられ、
観ているあいだ中、「歩きながらみてくださ~い!」という
武蔵坊弁慶のような女性の大声が。落ち着いて観られない。
ゆっくりと歩いて観ていても「一歩一歩、歩いてくださ~い!」と弁慶。
あるご婦人は、腕をつかまれて整列させられて、いたくご立腹の様子であった。
きっと、他の観客は「真珠の耳飾りの少女」よりも、弁慶の方が記憶に残るだろう。
個人的には、絵をじっくり見たい時には10分程度凝視している。
今回は無理矢理急かされながら、ということで落ち着いて眼に残らない。
ならば、互いのルールの線でやろうではないか、ということで、
弁慶の声をBGMとしながら、ゆっくり動きながら観る。
観終わってから列に並びなおして、何度も繰り返し観た。
2回目、3回目あたりは、なぜか警戒されて、男性の職員も怪訝そうにこちらをみるが、
あくまでルールを破っているわけではないので、手を出せない。
更に繰り返してみたら、さすがに口に出せなくなっているようである。
その頃には、こちらもコツをつかんで、最前列にならぶひとつ前の曲がり角なら
少し落ち着いて観られることが分かった。
最後は、これでもか、というくらいに最前列でゆっくり動きながら観た。
ガラスの展示スペースに入れながらも、
なおかつ人を遠ざける手摺りを設置するというのも過保護ではないかと思った。
そしてこの鑑賞方法。マウリッツハイス美術館の人が見たらなんと言うのだろう。
そんなに我々は「野蛮な」存在なのだろうか。
しっかりと時間をかけてみた「真珠の耳飾りの少女」は、
明暗と角度によっても見えてくる少女の、年齢の幅を感じた。
これは架空の人物を描いた「トローニー」がゆえなのだろうか。
ラスピラズリ(ウルトラマリンブルー)は、
昨年渋谷でみた「手紙展」の修復された青よりかはくすんで見えたが、
それでも、黒を背景とした絵の中で、際立った青を、
それは決して暗い色ではなく、深遠な青を浮き立たせていた。
作品の構図は、勿論、顔が8号という決して大きくはない絵の中心にあるのだが、
その余白の部分は、右側が黄土色のターバンの布端が上半分を占め、
左側の黒との違いが強調される。
つまりは、光が左から右へ差す中で、
表情全体に光を受け、白い肌がさらに光り、
その先に大粒の真珠の輝きがアクセントとなり、
ターバンの布端が、その余韻となる。
まさに光のドラマがそこにあった。
これが恐らく福岡伸一が言うような「光の微分法」に近い
解釈なのではなかろうか、と何度も繰り返してみて得た結論であった。(笑)
今年最も行きたいと思っていた美術展だったので、
気合を入れて、午前中には家を出る。
平日というのに、館内は入れたが入場まで20分待ち。
マウリッツハイスとは「マウリッツ邸」という意味で、
個人宅が美術館となっている。
小さいながらも、その展示の素晴らしさは有名であり、
今回は、改装と増築工事のため、その作品群が日本に来た。
風景画の低い水平線と面積を大きくとった空。
空の色はどんよりと曇っているものが多く、
そこを滑空する鳥の小さな影が、絵に動きを呼び込んでいる。
一つ一つの絵が、じっくりと観るに値する。
展示数は少ないながら、見どころ満載。
とりわけ、フェルメール作品の2作は必見。
「ダイアナとニンフたち」は、他と比べると大きい作品。
柔らかな光が、ダイアナのしなやかな身体を照らしている。
そして、「真珠の耳飾りの少女」
ここにきて、まさか中でも順番待ちをするとは思わなかった。
そして近づくと、九州で観た「阿修羅展」のような横暴な案内。
「観衆の背中越しに観る人」「最前列で観る人」「二列目で観る人」と強制的に分けられ、
観ているあいだ中、「歩きながらみてくださ~い!」という
武蔵坊弁慶のような女性の大声が。落ち着いて観られない。
ゆっくりと歩いて観ていても「一歩一歩、歩いてくださ~い!」と弁慶。
あるご婦人は、腕をつかまれて整列させられて、いたくご立腹の様子であった。
きっと、他の観客は「真珠の耳飾りの少女」よりも、弁慶の方が記憶に残るだろう。
個人的には、絵をじっくり見たい時には10分程度凝視している。
今回は無理矢理急かされながら、ということで落ち着いて眼に残らない。
ならば、互いのルールの線でやろうではないか、ということで、
弁慶の声をBGMとしながら、ゆっくり動きながら観る。
観終わってから列に並びなおして、何度も繰り返し観た。
2回目、3回目あたりは、なぜか警戒されて、男性の職員も怪訝そうにこちらをみるが、
あくまでルールを破っているわけではないので、手を出せない。
更に繰り返してみたら、さすがに口に出せなくなっているようである。
その頃には、こちらもコツをつかんで、最前列にならぶひとつ前の曲がり角なら
少し落ち着いて観られることが分かった。
最後は、これでもか、というくらいに最前列でゆっくり動きながら観た。
ガラスの展示スペースに入れながらも、
なおかつ人を遠ざける手摺りを設置するというのも過保護ではないかと思った。
そしてこの鑑賞方法。マウリッツハイス美術館の人が見たらなんと言うのだろう。
そんなに我々は「野蛮な」存在なのだろうか。
しっかりと時間をかけてみた「真珠の耳飾りの少女」は、
明暗と角度によっても見えてくる少女の、年齢の幅を感じた。
これは架空の人物を描いた「トローニー」がゆえなのだろうか。
ラスピラズリ(ウルトラマリンブルー)は、
昨年渋谷でみた「手紙展」の修復された青よりかはくすんで見えたが、
それでも、黒を背景とした絵の中で、際立った青を、
それは決して暗い色ではなく、深遠な青を浮き立たせていた。
作品の構図は、勿論、顔が8号という決して大きくはない絵の中心にあるのだが、
その余白の部分は、右側が黄土色のターバンの布端が上半分を占め、
左側の黒との違いが強調される。
つまりは、光が左から右へ差す中で、
表情全体に光を受け、白い肌がさらに光り、
その先に大粒の真珠の輝きがアクセントとなり、
ターバンの布端が、その余韻となる。
まさに光のドラマがそこにあった。
これが恐らく福岡伸一が言うような「光の微分法」に近い
解釈なのではなかろうか、と何度も繰り返してみて得た結論であった。(笑)