花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景・再び (番外編)

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再び木陰について

このコラムの一周目で、日本国憲法を「木陰」に例えたことがあった。
今日また、改めてその想いを強くしたので、再度書いてみる。


今日は梅雨前の真夏のような陽気だった。
昼から仕事の為、駅までの道のりは、とても暑かった。
通勤路でもある、親水公園を通り抜けて駅まで行く。
途中の木陰は、歩きながらでも、涼を感じる。
そこにいる間は、「救われた」という思いがする。

見上げてみる。
一枚一枚の葉は、決して大きくはない。
しかし、それらが沢山集まって、大きな陰を用意してくれる。
そしてそれは、枝を広げることによって、沢山の人々の憩いをもたらす。

これこそ、日本国憲法ではないか。

その葉は何にたとえられよう。
人々の叡智であろうか、それともかつて流した血や涙かもしれない。
少なくとも、長い歴史をかけて作り上げた「かけがえのないもの」だろう。

その枝葉が刈り取られようとしている。
勿論、樹木には必要な剪定はあるかもしれないが、
政府解釈の変更や、現在の改憲の流れは、
明らかに、人々の憩う場所を刈り取ってしまうものとなる。

再びの灼熱の陽射しの中に投げ出された人は、涼を求めて、彷徨う。
「ほら、あそこだ」という掛け声で、誰かが憩う木陰を奪い合うことになるのか。

自分達で、育て大きくするしかないのに、人のモノを奪おうとする。
それは「奪われる」という妄想を喧伝し、また再びの流血の争いになる。
暑い中、つらい想いをするのは言いだしっぺじゃないのに。

暑い陽射しに駆り出されたひとは、その中をひたすら彷徨う。
終着点はない。為政者が塀で囲っているから。
かくして、一度彷徨ったら、倒れるまで歩かされることになるだろう。

夜、帰宅時で同じ路を通る。
夜の木々は、呼吸をし、空気に潤いを与えてくれる。
瑞々しい匂いが心地よい。

おそらく、それらも刈り取られれば、
冬のような、鼻腔に突き刺す乾いた風が吹くだろう。

木陰は、切る人よりも守る人が多くないと、維持できない。


日本国憲法・前文
  日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。