花鳥風月記

流れる水に文字を書く

愚短想(323) 私とインターネット@1994年

部屋の中のコンセントの工事があるとのことで、
未開、いや魔界と化した部屋や机の整理をした。
(まだ終わってない…)

そうしたら、随分と昔、恐らく20年くらい前に
書いた文章が出てきたので、書き留めてみる。



「私とインターネット」

「パッ」という音が私の目をその親子に向けさせた。

日曜日の夕暮れ、バスの中で二人の会話は、ずっと向き合ったまま。
すぐ近くのはずなのに声が聞こえない。
不思議に思って良く見ると、子どもの耳には補聴器がついていた。

しばらく会話を「見た」。
「パッ」という音は、唇を合わせて出す音で、
何か強い意志を伝える時に使うようだ。
ケーキ屋の袋をさし、子供が何か言うと、
母親は腕時計を見せ言い返していた。
どうやら、子供はかえってすぐにケーキを食べたいと
ダダをこねているらしい。

二人の会話に気づいたことがあった。
それは、常に相手の顔を見て、
唇の動きや表情を見ないと、何も伝わらない、
ということだった。
普段、顔を見なくても会話ができる私たちに比べると
何となく息苦しい。

けれども、私の感じた息苦しさは、
何かを失った代償のようにも思えた。

パソコンを買って一年になる。
当初インターネットに関心を持って購入したのだが、
同時に疑問を持ち続け、利用せずに現在に至った。

外に出て、人と会う機会の多い自分にとって、
不特定多数の人々にアクセスすることに何の意味があるのか。
そして、顔を会わさない会話と言うものは
生産的な付き合いと言えるのか。

便利には違いない。また、不自由さを補うものとしても
充分に魅力がある。
しかし、もう少し、人と人どうしの関係が濃いものでないと、
かえって、お互いが疎遠になってしまうのではないか、
という不安もある。

近い将来、インターネットを利用するつもりだが、
漠然と空気の薄い世界を想像してしまうのは
私だけであろうか。

言い合いをしていた親子は、バスを降りると、
雨の中、仲良く相合傘をして帰って行った。
私はその親子を羨ましく思った。(了)



まあ、なんというか、あの時のことが懐かしく思えたりする。
20年も経つと、色々状況は変わるものの、
当時思った感覚に、あまり間違いがないようにも思えた。