永遠の「戦後」のために
本日は「戦後70年」の節目となる。
8月6日に広島、9日に長崎に新型の原子爆弾が投下され、
8月15日に玉音放送が流され、戦争が終結した。
いわゆる終戦記念日である。
上記に少し付け加えてみたい。
8月6日に広島、9日に長崎に新型の原子爆弾による
大量の市民虐殺(核虐殺)が行われ、文字通り街は灰燼と化した。
8月15日に玉音放送が流され、語られる内容は理解しがたかったが、
戦争に負けた、ということが分かった。この日は敗戦記念日となった。
「終戦」と「敗戦」。言葉の持つ意味は、
当時の人々によって違うだろう。
最後まで徹底抗戦を考えていた人にとっては、「敗戦」
ひたすらその時代を耐え忍んだ人には「終戦」という言葉に
なるのではないだろうか。
この二つの言葉の違いが、やがて戦後の長きにわたって
考え方の対立のようなものを醸成していったのではないかと思う。
「敗戦」と思う人の中には、「勝ちたい」、少なくとも「負けたくない」
という感情が脈打つ。だからこそ、戦後の日本であっても他国のような
戦争ができるだけの軍備を求める。
一方「終戦」という解放されたという気持ちを持つ人々は、
戦争を二度と繰り返さないためにも、2年後に施行された
日本国憲法、そして第九条を守ろうとする。
戦後の70年は、常にその二つの間で、国のかたちが論じられた
という見方もできる。
そしてその二つが併存できているのは「戦後」のおかげでもある。
単純な考え方だが、「次の戦争がない」からだ。
もっと単純に言えば「戦後○○年」を意識できるが、
「戦前○○年」と意識することはできない。
出来るとするなら、余程の権力を掌握したものだけだろう。
そう考えると、今の安保法制案は「戦前○○年」がすでにセットされて
いるかのように提出されているように見える。
制服組では、既に青写真どころか、来年のスーダン派遣まで
シナリオが書かれている、との情報もある。
「戦後」が危うくなっている。
再び、戦争ができるということになったら、
ここに生きる人々にとってみれば、
きっと「勝ち」「負け」ということではなくなる。
「豊かさ」「貧しさ」(「食える」「食えない」)から端を発し、
やがては「殺す」か「殺される」かのいずれかになる。
それは、戦争体験を持つ多くの人々によって
明らかにされている。
戦争の記憶を絶やすまいと、多くの人が記憶を語り始めている。
「自分史」というものを書き残そうとしている人の多くは
「戦争の記憶」「戦後復興の記憶」「家族の歴史」である。
戦争という記録が忘れ去られ、歪曲化され、
さらに集団的自衛権の可否をめぐる論議が出る中、
それはより強くなっている。
後に続く世代にできることは、その記憶をしっかりと受け継ぎ、
「戦後」を永遠に続けることだろう。
その平和(広義に言えば「戦争の無い状態」)の中で、
人々の英知を結集し、政治・経済・文化で
共存できる世にしていくことだろう。
記憶は記録と忘却とのたたかいである。
永遠の「戦後」のために。
8月6日に広島、9日に長崎に新型の原子爆弾が投下され、
8月15日に玉音放送が流され、戦争が終結した。
いわゆる終戦記念日である。
上記に少し付け加えてみたい。
8月6日に広島、9日に長崎に新型の原子爆弾による
大量の市民虐殺(核虐殺)が行われ、文字通り街は灰燼と化した。
8月15日に玉音放送が流され、語られる内容は理解しがたかったが、
戦争に負けた、ということが分かった。この日は敗戦記念日となった。
「終戦」と「敗戦」。言葉の持つ意味は、
当時の人々によって違うだろう。
最後まで徹底抗戦を考えていた人にとっては、「敗戦」
ひたすらその時代を耐え忍んだ人には「終戦」という言葉に
なるのではないだろうか。
この二つの言葉の違いが、やがて戦後の長きにわたって
考え方の対立のようなものを醸成していったのではないかと思う。
「敗戦」と思う人の中には、「勝ちたい」、少なくとも「負けたくない」
という感情が脈打つ。だからこそ、戦後の日本であっても他国のような
戦争ができるだけの軍備を求める。
一方「終戦」という解放されたという気持ちを持つ人々は、
戦争を二度と繰り返さないためにも、2年後に施行された
日本国憲法、そして第九条を守ろうとする。
戦後の70年は、常にその二つの間で、国のかたちが論じられた
という見方もできる。
そしてその二つが併存できているのは「戦後」のおかげでもある。
単純な考え方だが、「次の戦争がない」からだ。
もっと単純に言えば「戦後○○年」を意識できるが、
「戦前○○年」と意識することはできない。
出来るとするなら、余程の権力を掌握したものだけだろう。
そう考えると、今の安保法制案は「戦前○○年」がすでにセットされて
いるかのように提出されているように見える。
制服組では、既に青写真どころか、来年のスーダン派遣まで
シナリオが書かれている、との情報もある。
「戦後」が危うくなっている。
再び、戦争ができるということになったら、
ここに生きる人々にとってみれば、
きっと「勝ち」「負け」ということではなくなる。
「豊かさ」「貧しさ」(「食える」「食えない」)から端を発し、
やがては「殺す」か「殺される」かのいずれかになる。
それは、戦争体験を持つ多くの人々によって
明らかにされている。
戦争の記憶を絶やすまいと、多くの人が記憶を語り始めている。
「自分史」というものを書き残そうとしている人の多くは
「戦争の記憶」「戦後復興の記憶」「家族の歴史」である。
戦争という記録が忘れ去られ、歪曲化され、
さらに集団的自衛権の可否をめぐる論議が出る中、
それはより強くなっている。
後に続く世代にできることは、その記憶をしっかりと受け継ぎ、
「戦後」を永遠に続けることだろう。
その平和(広義に言えば「戦争の無い状態」)の中で、
人々の英知を結集し、政治・経済・文化で
共存できる世にしていくことだろう。
記憶は記録と忘却とのたたかいである。
永遠の「戦後」のために。