花鳥風月記

流れる水に文字を書く

日本国憲法百景 三たび (2)

背中で感じた2016年8月


8月は父の誕生日の月。お祝いを兼ねて、浦安にある温泉施設へ行った。
一緒に風呂に入っていたのは、小学生だった頃だろうか。そこから先の記憶がない。
81歳の父は、今でも50CCのバイクに乗って仕事に行っている。
この温泉施設に度々訪れ、高温のサウナに6分入り、
その後水風呂に2分浸かるということを、5回は繰り返すそうだ。
正直、ついていけない。

そんな壮健な父と背中を流しあった。
少しはずかしい気もしたが、せっかくなので、声をかけた。
子供の頃、両手で一生懸命こすっていた背中は、
右手で横に3回、縦に4回繰り返すだけのものとなった。
父に背中を流してもらう。決して強くこすらない。
ああそうだった、と思い出しながら、子供の時との違いも感じた。

父の手が小さかった。

それを感じたとき、頭を何かでガーン、と殴られたような感覚になり、
眼の奥が熱くなった。涙をこらえるのに必死だった。

いつも一緒に暮らしていても、気づかないことがある。
見ることと触れることの違いを痛感した、そんな一日を過ごした。

その翌日、今上天皇生前退位についての「お言葉」を発した。
国政に関わる権能を有しないため、「退位」という言葉がなかったが、
摂政設置を避ける言など、現政権の思惑を牽制しつつ、殯(もがり)の祭礼により、
国家国民に負担をかけまいとする率直な意見をメッセージとして伝えた。

象徴という存在も、見ることは多くても、触れることはない。
「いつまでもお元気で」という言葉も、
何かを都合よく先送りにしているのではないか、
という戒めのメッセージのようにも思えた。

原爆投下と敗戦。8月の記憶は70年経って風化しつつある。
見ること以上に触れることの大切さを、今だからこそ、強く思う。


第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、
これを継承する。