花鳥風月記

流れる水に文字を書く

愚短想(205) 想像力の彼岸

小説とマンガ・アニメの違いは何か。
今まではっきりと言えたことは、
その像が具体的であるか想像的であるかだった。

小説の中の登場人物であれば、
個々で自由にそのイメージを膨らますことができるが、
鉄腕アトム」であれば、その形に抗うことはできない。

もっとも、人が共通してイメージすることは時として起こり、
伊坂幸太郎の『バイバイ・ブラックバード』の繭美は、
マツコ・デラックスというのが、読者の約束事のようになっていた。

最近の映画は、小説やマンガ・アニメの映画化、それも実写化が目立つ。
いわゆるCG、VFXを駆使して、そのイメージに迫る。
ある意味、それは野心的にも思う。

かつてのモノクロTV時代の「鉄腕アトム」の実写化の蹉跌を超え、
脚色、または表現の取捨選択が、とても「創造的」であると思える。
いくつか記憶にあるものを書き出してみる。

「改造人間キャシャーン」の実写化は、宇多田ヒカルの(元?)旦那が
作ったが、「キャシャーン、おまえがやらねば、誰がやる」という
決まり文句には達しない残念作だったが、あの時のキャシャーン役は、
あのヘッドギア付けず、マスクだけ装着していた。
きっと付けていたら、アトムの二の舞だったのだろう。

「マッハGoGo」は、アニメよりもエンターテイメント性に富んでいる。
洋画ならではの面白みと日本人キャラ設定の詰めの甘さがなぜか雑妙で、
アニメ時代のオープニングのキメポーズが決まったシーンは、
どことなく爽快だった。

宇宙戦艦ヤマト」(アニメ版)は、原作・マンガ・監督(総指揮)が、分散していて、
結果、ストーリーがいくつも分散して、視聴者に食傷を起こさせた。
戦艦だけに、船頭多くして、船山にのぼってしまった感がある。

マンガはその辺として、小説の実写化はどうだろうか。

東京島」を見たが、うらんかな、の思惑が如実に出た。
とても木村多江に、小説の設定のような罵詈雑言や運命を浴びせられない。

伊坂作品の映画化は、監督の力量が成否を分ける。
その意味で、「フィッシュ・ストーリー」「ゴールデン・スランバー」の
中村義洋は、良かった。今はやりの言葉でいうなら、
設定の「仕分け」の妙が、見る人の想像力(触れず・語らずの部分)を
惹起させた。

今後、気になる実写化映画はいくつかある。
「七瀬ふたたび」「宇宙戦艦ヤマト」「あしたのジョー」など。

そのいくつかには、気付かなかった面白さを与えられ、
または、ガッカリさせられるのだろう…。

見えないものを見える(実写化)ようにするには、
逆に実写で表現しないものが、新たな想像力、
原作とストーリーを這わせる、または別解釈を求めるような
そんな野心があると、意外と面白いのかもしれない。