花鳥風月記

流れる水に文字を書く

ジョセフ・クーデルカ 「プラハ68」

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恵比寿の東京都写真美術館にて。

1968年は、奇しくも自分が生まれた年にあたる。
その年の5月、遠い東欧のチェコスロヴァキアで、
プラハの春」そして、ソ連の軍事介入があった。

情報統制のあった、社会主義体制のなか、
その民衆の中にいながら、運動に加わりながらも、
シャッターを切っていた写真家がいた。
ジョセフ・クーデルカ、当時30歳。
報道写真のキャリアはなかったが、その写真は、
当事者という迫真を得つつ、民衆と軍との対峙を見据えていた。
展示場にある動画でカメラを持っているのが、当人かもしれない。

ヴァーツラフ広場には、何万もの市民が埋め、
ソ連などの多国籍軍の侵入を阻止しようとしていた。
いくつも見られた鉤十字の落書きは、その圧政を物語っている。
やがて、戦車と機銃が、人々のうねりを蹴散らし、
重苦しい静寂を生む。その静けさを克明に時は刻む

モノクロ写真から漏れ出てくる声やにおいを感じる。

歴史に暗幕が垂れ込めていた瞬間でもある。
そんな中、ある新聞の号外が壁に紹介されていた。
非常に印象深かったので、記録した。

「セシティ・プロ・ムラドウ・リテラトゥル」1968年8月27日号外
今宵
モスクワで交渉を行っている代表団の状況について詳細を知ることはできない。
彼らは、明日になったら、永遠に姿を消すかもしれないし、交渉が行われている
部屋で射殺されるかもしれない。半年後になってようやく公式に知ることになる
かもしれない。すでに前日に判決が下されていて、イムレ・ナジのように処刑され
ていた、と。ロシアの指導者たちにできないことはないということを私たちは知っ
ている。真実と道徳というカテゴリーは帝国主義者たちの単なる策略にすぎないのだ。
だが、モスクワで交渉を行っている者のうち、自分が持っている力に疑念を
抱く者が一人でもいたとしたら、その人物は、その場を去るがいい。
辞任すべきである。それだけの技量がないのならば、国民を代表して議論を
行うことも拒否するがいい。そのように振る舞えば、私たちはその人物を尊敬
するだろう。なぜならば、検閲あるいは外国の戦車1台であっても、それらと
ともに全員が帰国するよりは、一人残らず帰国しないほうがいいからだ。
残酷に聞こえるかもしれないが、歴史は残酷さを感じることはない。憎悪に満ちた
民族が嫌悪すべき相手と友好関係を結び、自分たちの子どもと同盟関係を結ぶことが
将来において考えられないほど奇怪なものになることを、彼らもまた
理解するに違いない。

当時は、安全を考え、匿名で写真はマグナム・フォトを通じて配信された。
実名が公表されたのは16年後の1984年のことだった。

ヴァーツラフ広場は、21年後に「ビロード革命」の舞台となった。
一度は行ってみたい場所でもある。