愚短想(281) 「観なければ」から学んだ映画
岩波ホール支配人の高野悦子さんが亡くなった。
エキプ・ド・シネマを提唱し、世界に埋もれた映画を
沢山紹介していた。
岩波ホールに通い始めたのは、大学生の頃。
映画に疎くても、とにかく岩波ホールの映画は
「観なくては」という思いがあった。
じつは、この「観なくては」という感覚が、
本でもそうだが、ある一定の審美眼を養うのに
必要条件であったように思う。
勿論、その審美眼を今でも得ているわけではないが、
低質のものに見慣れてしまうと、上質を理解できず、
上質を理解しようを努めることで初めて、
低質の面白さを許容できる「懐(ふところ)」ができるのだと思った。
非常に大上段からの物言いになってしまったが、
人に強いられることなく、状況より強いられたというか、
知らないことに対する「恥・恥じらい」を意識させてくれる
貴重な空間を岩波ホールは提供してくれていると思う。
観ながら知り・考える考えるという営為は、
ミニシアターの存在意義でもあるのだが、
今の「シネコン」の時代、ミニシアターは衰退の一途をたどる。
これからも、意義ある映画が脈々と続くことを、
そしてその上映館が続くことを祈るのみである。
高野さんの業績に感謝しつつ、ご冥福を祈りたい。
エキプ・ド・シネマを提唱し、世界に埋もれた映画を
沢山紹介していた。
岩波ホールに通い始めたのは、大学生の頃。
映画に疎くても、とにかく岩波ホールの映画は
「観なくては」という思いがあった。
じつは、この「観なくては」という感覚が、
本でもそうだが、ある一定の審美眼を養うのに
必要条件であったように思う。
勿論、その審美眼を今でも得ているわけではないが、
低質のものに見慣れてしまうと、上質を理解できず、
上質を理解しようを努めることで初めて、
低質の面白さを許容できる「懐(ふところ)」ができるのだと思った。
非常に大上段からの物言いになってしまったが、
人に強いられることなく、状況より強いられたというか、
知らないことに対する「恥・恥じらい」を意識させてくれる
貴重な空間を岩波ホールは提供してくれていると思う。
観ながら知り・考える考えるという営為は、
ミニシアターの存在意義でもあるのだが、
今の「シネコン」の時代、ミニシアターは衰退の一途をたどる。
これからも、意義ある映画が脈々と続くことを、
そしてその上映館が続くことを祈るのみである。
高野さんの業績に感謝しつつ、ご冥福を祈りたい。