花鳥風月記

流れる水に文字を書く

愚短想 番外編 平和教育の難しさ

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広島の平和記念資料館は、高校の修学旅行で来たことがある。
展示物で記憶に残っているものもいくつかある。
そう、あの街の上に浮かんでいるあの「赤い玉」…。

今でも修学旅行の定番コースになっているようで、
あちこちで集合写真の姿を見た。

この場所で果たして、笑った顔でいいんだかどうだか
神妙な面持ちの生徒もいた。これはいつもそうなのだろう。

今回、オトナになって訪れて思ったことがいくつか。
平和教育の難しさである。

平和教育の最大の敵は、「忘却」であろう。
戦争を知る世代、間接的に知る世代の存在が薄くなり、
次第にその過去が、教科書などの「詰め込まれた」存在になる。
時代をリアルに伝える人もいなくなり、
教員ですら、何かから見たモノ、それが何かはわからないが、
「知識」として伝えようとする。
「知識」の伝達については、生徒は「抵抗」と「反抗」を持つことがある。

千羽鶴に火をつけたり、資料館で騒いだりする輩は
結局のところ、「平和教育」の成果(悪い意味での)ではあるまいか。
例えば、この資料館は、なぜ「平和記念」なのか。「平和祈念」ではあるまいか。
「記念」であるところに昨今の嘆かわしい世相への陥穽があったのではあるまいか。

外国から来た人々の真剣なまなざしとは対照的に
観光気分が抜けない修学旅行の人波を見るたびに、
恥ずかしい気持ちになった。
これはもしかしたら、かつて自分たちがそうであったかもしれない。
しかし、当時と違う「何か」を感じた。

グローバル人材育成を喧伝する人々は、資料館の内容は勿論のこと
そこに来る子どもの様子も見たらどうだろうか…。